Pray through music

すとーんずにはまった元バンギャの雑記。

それは、変幻する男の物語。(ろーじーMV感想)

それは、一人の男の物語。


そう感じたのは、 普段着の青年らしき6人が順繰りに映される場面。"ふつうの"青年が、街の真ん中に佇んでいる。
街はどこまで行っても終らないものだ。
ぐるりと見渡しても、立ち尽くしても、前に進んでみても。


しかし、ギャングスタの彼らは一人ではない。六人六様の生きざまを見せる。


ここに、ケ⇔ハレを見る。


ケは日常であり、ある種の抑圧状態である。つまり、私たちは世間から(親から、友人から、上司から、)「あなたはこうである」「あなたはこうしなくてはならない」というメッセージを受け取り、実際にある程度のところまで、そのイメージに沿うように動く。
"ふつうの"青年である彼らには、二十歳ぐらいの、社会に希望も絶望もこれといってないような感じを受ける。

 


反対に、ハレ、非日常にあるギャングスタの彼らは解放状態だ。六人六様の表情。

特に、北斗くんの表情に異常性を見る。常軌を逸したと感じさせる笑み。"ふつうの"青年に戻った後も、その顔の笑みは戻ることがない。行くところまで行き着いてしまった。狂気の沙汰の中で、ふつうの仮面を被って生きる。
(人肉喰ってそうとか言ってごめん、食べてそうな顔してたんだよ)


ジェシーくんはトリックスターだろう。善悪どちらにもやじろべえのように傾く。但し、彼自身が善悪の狭間で揺らいでいるのはない。社会が揺らいで、その時にどちらで見られるかというだけの話。トリックスターはあるときには愚者であり、あるときは賢者だ。どの方向から彼を見るかで、彼はどちらに転んでも自分なのである。


大我さんの表情には最もぞっとした。何もないのだ。(いや、細かく見ていけばあるのだけれど。「摩天楼の針の間に」とか。)恐らく、現実の"ふつうの"青年とは違った方向の抑圧がある。彼を抑圧しているのは、他人ではなく己自身である。時折歪む顔は、その自己抑圧すら制御しきれない怪物の出現だ。


映像を見ていると、『ジキルとハイド』が思い起こされる。


聡明かつ善良な紳士であるはずのジキル博士は、抑えがたい情動を持てあまし、二重生活を送る。薬品によって変身する術を得た彼はやがてほの暗い欲望の産物であるハイドに呑み込まれる。

私が、人間はもともと完全に二重性のものであることを認めるようになったのは、その道徳的方面でだった。しかも私自身の意識の分野の中で互いに争っている二つの性質のどちらかが自分であるとはっきり言えるのは、ただ自分が根本的にはその両方であるからである、ということを知った。(中略)もしその各々の要素を別々の個体に宿らせることさえできたなら、人生はあらゆる耐えられないものから救われるであろう。正しくない要素は、自分と双生児の一方である正しい要素のすべての志望や悔恨から解放されて、自分の欲するままの道を行くことができるであろうし、正しい方は、自分の喜びとする善事を行ない、縁もないこの悪の手によって恥辱や悔悟にさらされることなしに、安心して堅実に向上の路を歩むことができるであろう

ーーーー

私は、我々がそれに包まれて歩いているこの見たところいかにも頑丈なような肉体というものが、極めて不安な実体のないようなもの、霧のようなはかないものであることを、今までに述べられたよりももっと深く了解するようになった。

ーーーー

今から半時間もたてば、私は再び、そして永久に、あの憎み嫌われる人間に変っているであろう(中略)。ハイドは処刑台上で死ぬだろうか? それとも最後の瞬間になって逃れるだけの勇気があるだろうか? それは神さまだけがご存じである。私はどちらでもかまわない。これが私の臨終の時なのだ。そしてこれから先におこることは私以外の者に関することなのだ。だから、ここで私がペンをおいてこの告白を封緘しようとするとき、私はあの不幸なヘンリー・ジーキルの生涯を終らせるのである。

(以上、『ジーキル博士とハイド氏』スティーブンスン、佐々木直次郎訳、新潮文庫


MVでははじめのポジションに全員が戻るけれど、見ている方向は反対だ。
善悪は合わせ鏡であり、内面が変わろうが、それは仮面を被ってしまえばわからない。


他人に飼い慣らされた自分と、抑圧から解き放たれた自分とを比べて、どちらが正しいか。答えはたぶん無くて、だからこそ人は自分にとってのヒーローを産み出してしまうのだろう。