Pray through music

すとーんずにはまった元バンギャの雑記。

『スタンディングオベーション』感想/誰にとって「不要不急」?

◯この記事にたどり着いた方へ
お読みいただきありがとうございます。SixTONESジェシーくん主演『スタンディングオベーション』(@赤坂ACTシアター、2021年8月3日~29日)感想です。

 

www.tbs.co.jp


各演者さんに詳しいわけではないので、主に物語がどういう内容だったのか、私なりの感想です。すごくぐちゃぐちゃで、整頓はされていません。

※台詞はニュアンスでしか覚えていません。
※「不要不急の外出はお控えください。」の段は私の個人的な話なので、飛ばしてそれ以後を読んでいただければ良いかなあと思います。

 


◯本題

「不要不急の外出はお控えください。」

私たちの日常が、「不要不急」を取り除こうとされ始めた日。
あれからずっと、私たちの日常は、生活に直結するわけではないものを緩やかにゴミ箱に入れ続けている。

仕方のないことでもある。未知なのだから。人は未知に抵抗する力を持っていないのだから。
その未知は少しずつ、非日常から日常になってきて、既に当たり前になった。

私の好きなバンドのいくつかも、メンバーの新型コロナ感染が発表されて、ライブが何本も中止になった。そのうちの一人は入院して、退院後、現状をSNSで私たちに伝えてくれた。
1曲歌いきる体力すらなくなってしまった。リハビリで今日はこんなことをした。20分の運動も休み休みの身体がもどかしい。

私の好きなライブハウスは概ね地下にあって、換気が悪く、空気が籠る。
「不要不急の外出を控えてください。」「三密を避けてください。」と言われた日から、ライブハウスは遠くに行ってしまった。

あの空間が好きだ。
音楽や光を一身に浴びられるあの空間。
ぼそぼそとした、はにかんだ喋り方で、心の裡を教えてくれるMC。
まったく知らない人たちと、同じバンドが好きだからというだけで居合わせて、夜光虫みたいに音に吸い寄せられて蠢くフロア。
私は自分の身体を抜け出して、ただ彼らのつくる世界に没入して、揺蕩う精神になる。

毎日を過ごす中で、人はある程度精神を擦り減らして生きていると思う。
仕事で良い結果が得られたときは少しだけつま先が浮いたような、ふわふわした気持ちになれる。
でも、何かミスをした時がつらい。私が納期を間違えたせいで必要なものが届かなかった、完成しなかった、というミスより、依頼してきた相手が納期を勘違いしていて、1か月後で問題ないと伝えてきていたのに、本当は明日必要だった、という場合が殊更つらい。

 

それから、結婚や子どものことを訊かれるのも少しだけ心がささくれる。妙齢だからと、なぜか訊かれる。
私は自分の子どもは欲しくない。自分の子どもを愛せなかったらどうしよう。醜いと思ってしまったらどうしよう。私の顔の要素がひとつでも遺伝したらどうしよう。生まれてもない子どもが可哀想になる。

母親がブスだと言ったのだから、私の造形は醜いんだろう。眼の形も鼻の形も全部、母の理想じゃない。
そういえば、大学時代、友人に「整形したい」と言ったら、「イヤミか」と相手の気分をひどく害してしまった。私は私の顔について話をしているのであって、彼女の顔の話はしていないのに、と思ったけれど、兎角私は無神経なのだろう。
母親に可愛くないと言われた顔。そこに引っ付いている眼。二重であろうと多少大きかろうと、母親の欲しい眼じゃない。そこを褒めてくる人の無神経さは棚にあげるのに、自分だけの顔に言及することの何が「イヤミ」なのだろう、と薄暗く思わなくもないけれど、私が私の顔にコンプレックスを持つことも、口外するのも無神経なのだ。


ライブや観劇はそうしたものから全部解放してくれる。不急ではあるかもしれない。でも、絶対に不要ではない。
自分を否定する自分も、肯定する自分も、音楽には関係ない。ただそこにあるだけの自分になれる。


そうした鬱々とした日々の中発表された、『スタンディングオベーション』。
自力で手にした1枚。そして、遠方だからと泣く泣くあきらめた友人から譲り受けた1枚。

2日間観劇することができた、その感想を綴っていきます。

 

感想

この舞台は非常に実験的で、好戦的で、同時に人に手を差し伸べるものだったと思います。

 

実験的要素

劇空間と現実を繋げる仕掛けが至るところに張り巡らされていました。

劇場に足を踏み入れると、まず『ジョージ2世』のポスターが至るところに貼られているのに気がつきます。



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主演:鳴島誠也、8月3日~29日、赤坂ACTシアター

私たちは、『スタンディングオベーション』を観にきた現実と同時に、『ジョージ2世』を観にきた、という仮想空間の観客であることが求められます。

 

さらに、劇中で殺人犯が客席に潜んでいることが明かされたあと、ロビーのゴミ箱には「立ち入り禁止」のテープが貼られ、ますます現実と劇の混同を引き起こさせようとしていました。(幕間で席を立たなかったので、この仕掛けには気付かず……実際に目にしていたら、感興を引き起こす仕掛けだったろうな、と思います)

 

また、パンフレットのカバーも『ジョージ2世』のものが掛けられています。1枚めくれば、本体は『スタンディングオベーション』のパンフレット。どこまで行っても二重構造の世界に、観客は置かれます。

 

この劇の筋は『ジョージ2世』のある日の公演で、ある政党の幹事長を殺した犯人が客席に紛れ込んでいるので、その犯人を刺激しないように舞台は予定通り行い、密かに犯人を捜しだす、というもの。

刑事役の二人や演出助手、演出家、……と様々なキャラクターが客席に降りることで、犯人が実在するかのような臨場感を与えようとしていました。

臨場感といえば、客席に乱入してくるリポーターとカメラマン。ワイドショーが舞台のモニターに映し出され、「幹事長死亡」「犯人は劇場に潜んでいる」というニュースを流す。

そして劇場の外の騒乱が示されたあと、ややあって、リポーターとカメラマンとが客席に入り込んでくる。

幹事長殺害は実際の出来事で、ここに犯人が確かにいる、と印象付けるかのように。

 

もちろん、観客巻き込み型の舞台は、今までだって幾度となく上演されてきました。けれど私は今までの乏しい観劇経験では体験したことがなかったので、とても新鮮でした。

 

好戦的だと思ったところ

まずは、役/演者の紹介方法について。

可動式のモニターをうまく使っていました。

パネルの枚数は正確には覚えていないのだけれど、何枚ものモニターがこんな風に組み合わせて吊るしてあって、それぞれバラバラの映像を映せるようになっています。


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そして、それを動かしてくっつけてやることで一つの大きなモニターとしても使えるようになっていました。

どう紹介に用いていたか。

モンタージュの技法を用いて、各演者の目なら目だけ、口なら口だけをそれぞれのモニターに映したあと、正しいピースを嵌めて、役/演者の名前を表示する。

そのキャラクターですら、アリバイがあるのに"容疑者"のように扱う。イメージの集合体。

 

次に、アイドルやそのオタクに対して。

主人公の誠也は、大手芸能事務所に所属する売り出し中のアイドル。その誠也に「いきなり主役なんかじゃなくて、もっと小さい役からコツコツと経験を積み上げていきたかった」と言わせたり、周りのキャラクターに「大人の事情で(ミュージカルじゃないのに誠也の歌唱やダンスのパートが入った)」と言わせたりします。

確かにジャニオタになる前、私もそういう風に思っていたし、今だって好意的にジャニーズを見る人でなければ、そう思うだろう。知らなければいずれそんなものです。

 

また、比較的早いシーンで、「エリザベートに出れば良いのに」「メンバーが出てますよ」というやり取りが挿入されていました。

明らかにSixTONESジェシーくんと誠也の境目をわからなくさせようとしているのでは、と考えます。team SixTONESであれば大我さんが『エリザベート』に出演していたのはもちろん知っているし、よく観劇をされている方も、『スタンディングオベーション』主演のジェシーくんのことを調べれば、芋づる式に京本大我の名前が出てきて、「あの子がいるグループなんだ」ということがわかる。

 

(知らなかったとしても、「誠也はグループでアイドルをやっている」「そのグループには、『エリザベート』に出るような子がいる」というキャラクター付けができるから、あーうまいなあ、観客を2つの層に選別してるんだなあ、と思います。)

 

ところで一般にアイドルオタクのイメージってどんなものなんだろうか。対象に並々ならぬ思い入れを抱く人、でしょうか。

近年のオーディション番組の盛り上がりを考えると、人はアイドルの成長譚を見るのがどうやら好きらしい。

普通の男の子/女の子であった誰かが、オーディションで長期に渡って試され衆目に晒され続けることで“アイドルらしさ”を身につけていく過程。何者でもなかった彼らが、何がしかになっていく様子。

 

そもそもこの舞台の企画・原案の秋元康さん自体、アイドルをプロデュースし、総選挙や〇期生、研究生といったシステムを作っていた。総選挙は物凄くよくできたシステムだと思う。たった1曲のセンターを決めるためにファンにお金を捻出させる。

どこまでお金を出せば自分の推しを選抜入りさせられるのか。ファンの闘争心を煽りたて、吐き出させます。

 

ホストクラブのシステムに似ていると感じます。

担当をたった1か月の王様にさせるために高級酒を頼む。その大半はヘルプに飲み干されてしまうか、飾りとしてテーブルの上に置かれるだけ。

毎日、毎日、その日の営業で最も売り上げた者が発表されるから、そこである程度順位の目星はつく。そして月内の最終営業日、順位を発表し、ナンバーに入ったホストにコメントさせる。

選挙の最終日まで金を吐き出せ続け、ランクインしたメンバーたちにコメントさせる。

アイドルもホストも、実在する人間を使って行う、資本によるゲームの駒みたいだなあ、と思います。

 

昨今のオーディション番組や一部のコンテストでは、資本のほかに、SNSでの拡散度合いも加味されているけれど、これも同じことでしょう。投票や拡散と言った行為で、推しのことを考え続けさせる。考える時間が長ければ長いほど、人はそれに執着するようにになる。

「私が/俺がNo.1にしてあげる」。

なんて気持ちのいい言葉でしょう。私が育てた。私が成長を見守った。私が。

 

オタクにそういうシステムを与えながら、オタクを挑発する。

「僕のファンがサイリウムやうちわを振っちゃったりなんかして」「事務所の力で主演になった」

 

秋元さんはパンフレットにおいて、脚本が当て書きであることを明言しています。繊細で大胆なジェシーくんの魅力を際立たせる、だけではなく、ジェシーくんのファンに対して、自己批判を迫ろうとしているのでしょうか。

 

ただ、これはこちらが過敏に反応しているだけなのかもしれない。

秋元さんは以前、こんなことを言っています。

AKBの女の子たちは、応募した時点で、格差社会の芸能界に入ろうと思ったんです。AKBに受かる受からないという格差があり、入ってからもヒエラルキーがある。(中略)だから、選挙で格差をつけるのはかわいそう、という話にはならない。

[『AKB48の戦略!秋元康の仕事術』秋元康田原総一朗共著、アスコム刊、2013]

 

人に手を差し伸べるところ

①親殺しのモチーフ

この劇は、親殺しのモチーフが使われていました。
親殺しのモチーフはそれこそ『オイディプス』の頃から青年の通過儀礼として描かれるものです。
幹事長を殺した犯人は幹事長の息子であるヨシオでした。

老齢の大場というキャラクター(劇中劇ではジョージ2世の息子役)が幹事長の息子(以下息子)にチケットを贈り、息子は父殺しをしたその足で観劇に赴きます。
幹事長は息子に政治の道を期待していましたが、息子は役者を志していました。ナイフを忍ばせ、「役者の道を許してもらえないなら、いっそ僕を刺してくれ」と言うつもりで。それが手違いで、息子が幹事長を刺してしまった。

 

親殺しは通過儀礼です。一度父母を否定し、乗り越えることが成人になるための必要事項。
手違いとはいえ父を刺す、ということが、息子の成長の第一段階でした。

同時に、誠也と大場に目を向けると、誠也の父は誠也15歳のときに亡くなっている、という設定。
思春期で両親に逆らいはじめている頃でしょう。しかし、父を乗り越えるプロセスは未完成に終わってしまう。乗り越えるべき父がいなくなってしまったのだから。

そして大場にとっても、誠也の父は(親ではないものの)乗り越えるべき存在でした。
大場はアドリブが非常に不得手で、完璧に劇を造り上げたい人間だ。寸分の狂いも許せない。
それに対して誠也の父はアドリブも入れる。器用に立ち回り、脚本・演出・出演なんでもこなす。
相容れるはずもありません。しかし、この日演じられた『ジョージ2世』で大場は誠也のアドリブを受け入れ呼応する。

誠也にとっても大場にとっても、幹事長の息子の親殺しは、自分が乗り越えるべきものを乗り越える通過儀礼だったのでしょう。

 

②「アマリリスの花」のこと

さて、白川幹事長を殺害した犯人である、白川幹事長の息子・ヨシオについてもう少し考えたいと思います。
「男性に恋することもあるくらい純粋で、まるでアマリリスの花のよう」と評される彼。

彼はステージには一度も出てきません。
関係者席のあたりに向かって誠也くんと大場さんが呼び掛けることで、その存在がなんとなく関知されるのみです。

 

恐らくここで出てくる「アマリリス」は、よくアマリリスと混同される「ベラドンナリリー」のことではないかと思います。

マリリス花言葉は『おしゃべり』『誇り』『輝くばかりの美しさ』『虚栄心』。
ベラドンナリリーは『ありのままの私を見て』『私の裸を見て』『沈黙』。

 

父に望まれた道ではなく、演劇の道で身を立てたいと願う息子。男性に恋する自分のありのままを知って認めてほしいと願う息子。

受け入れられない絶望は、どれほどのものだっただろう、と思います。
沈黙を破って、ありのまま、裸の心を剥き出しにして父とぶつかろうとした。けれど父は、息子の裸の心を受け入れることができなかった。

 

父にも父の論理があって、政治の道を歩んでほしい、普通に結婚して、普通に子どもを育ててほしい、というのは親として願うところなのは理解できます。
自分は政治の道で幹事長まで上り詰めたのだから。離婚したとはいえ、子どもと交流があるのだから。
自分と同じ道を、自分よりうまく歩んでくれたら。

「もっと話し合えばよかった」、もちろん違う人間だから、わかりあえないことがわかるだけかもしれない。けれど、「貴方とぼくは決定的にちがうのだ」と早いうちにわかれば、そして父の理解を諦めることができれば。彼は父親を刺さなかったかもしれないなあ。

 

諦めるのも諦めないのも、どっちも同じくらい辛いよね。
ヨシオはきっと、上手に諦められるほど大人でも、親に従えるほど子どもでもなかったから刺してしまったのでしょう。

 

そして、親を差したその足でヨシオは劇場に赴きます。

『ジョージ2世』を観るために。

 

「男性に恋すること"も"あるくらい」、なら父親を刺さずに済んだのでは、と思うところもあるから、大場さんは敢えて"も"を入れたような気がするな……。
(だってそれは、ある程度以上の年齢の人なら"若気の至りでいつか女に落ち着くだろう"、ととらえそうだもの。)

 

③不要で不急なものなのか?

ヨシオが父親を刺した後、劇場に足を向けたのは、果たして「不要不急」だったのでしょうか。父親を誘って一緒に観るはずだった『ジョージ2世』。
劇中で本来演じられるはずだった『ジョージ2世』はこういう筋でした。ジョージの息子であるフレデリック・ルイスは、父王ジョージ2世に失望し、暗殺を企てる。しかし父の真意を知った彼は、最後には父に己のやったことを詫び、自ら命を絶とうとする。

ヨシオは自分とフレデリック・ルイスを重ね合わせていたから、この劇を父親とともに観劇したかったのでしょう。これは大場からの言及でもわかります。
演劇で生きていきたい、という決意を伝えたあと、自分の心情を理解してもらうために。

 

演劇やライブは、このコロナ禍で、「不要不急」のものと位置付けられました。
けれど、ヨシオにとっては急を要するものだったに違いありません。

 

すでに20代も半ばを過ぎ、もし父に認められたとしても、役者としてはかなり遅いスタートになる。役者になるという夢だけではなく、自分のセクシュアリティに関する部分までもきっと彼は言おうとしていたでしょう。
今までぶつかるのを避けてきたけれど、もう正面切っていくしかない。何かを成し遂げるには、人生はあまりにも短い。

 

この劇を一緒に観ることができたなら、自分を否定する自分も、肯定する自分も関係なく、ただそこにあるだけの自分になれる。ただそこにあるだけの親子になれる。

お互いの立場や想いを踏まえて、しかしその上でただ純粋な気持ちだけをぶつけ合う。


父親が理解してくれる、という希望を持っていたはずのヨシオは失意の中、縋るような思いで劇場に足を踏み入れ、父親とともに観るはずだった劇をたった一人で観る。
父に認められなかった自分自身を認めてやるために。

誠也と大場が台詞を変え、ヨシオに対して語りかけたことは、ヨシオにとって救いになったのか。私にはわかりません。
罪を償い、家庭を築く。幸せになる。

 

ヨシオが罪を償えたとしても、日本にいながら役者になることは難しいでしょう。多くの場合、犯罪者は実名で、顔写真も公開されます。幹事長の息子が幹事長を殺した、しかも(実際には縋るような思いだとしても)そのあと呑気に観劇していた、なんて、自分がワイドショーの関係者なら、こんなにおいしいネタはありません。

誠也と大場は、役者になるということへの言及はしませんでした。もちろん、『ジョージ2世』という劇の性質上、フレデリック・ルイスが望んでいなかったところには言及できなかったということもありましょうが、そうした現実を踏まえて、言えなかったのだと思います。

ただ、救われなくても、自分のことを助けようとした人間がいる。その事実だけはヨシオの裡に残るような気がします。

 

終わりに

 

ここまで書いて、改めて、果たして人が救いを求めるものが「不要不急」なのか、と思います。

このコロナ禍で、日本の自殺者数は2009年以来11年ぶりに増加に転じました。下記の記事では原因として「経済苦」「孤立」が挙げられています。

www.nikkei.com


また、今年、小中学生の自殺は、7月時点で年間最多となった昨年を上回るペースで増えています。こちらでは「家庭内で息苦しい思い」をした可能性を指摘しています。

www3.nhk.or.jp

経済苦や孤立、家庭内での息苦しさといった要因で人は自ら命を絶ったりします。でも、エンターテインメントはそうしたものから少しだけ抜け出すために力を貸してくれるはずです。
ほんの少しの時間だけでも、生き延びるための避難場所となってくれるエンタメ。

 

劇中でも、コロナ禍について何度か言及されました。この劇は、「不要不急」とされたエンターテインメントからのカウンターパンチなのではないでしょうか。