語りの問題:『ふたり』私論
※引用部について:特にタイトルの記載がないものは、SixTONES『ふたり』(Sony Music、2022)からの引用。
「わたし」はどこにいるのか:語り手としての「わたし」
物語には、語り手が必要とされている。そして、語り手には語る対象との距離がなくてはならない。
『ふたり』の場合は、「わたし」が語り手であり、また語られる対象でもある。というと、同一人物であるのに距離があるわけがないだろうと訝しむ人もいるだろう。
語る「わたし」と語られる「わたし」には、絶対的に距離がある。時間的な距離である。
「あなた」について語る「わたし」に移入して、リスナーはこの曲を聴く。
「朝焼け」の時間、ある程度ビルの林立する都市の一部屋で、「隣で眠るあなた」を眺めているのが語られる「わたし」である。語る「わたし」はその時に動いていたものとして、「うるさいほどに鳴り響く秒針」を挙げる。「眠るあなた」=静まっているあなたとの対比を印象付ける。「わたし」は普段なら気にも留めないような事物が気になるほどしんとした空間に佇んでいる。
その「あなた」との思い出は、過去に遡る形で思い出されていく。あるいは抽象から具体へと絞り込まれていく。
孤独を感じた夜も 未来に怯えた夜も
いつも私だけを照らしてくれた
止まない雨の中 見えない星の下
ずっとわたしを信じてくれたね
手を繋ぐ帰り道
何気ない会話さえ
幸せだと思えるのは あなただから
※下線は引用者によるもの、以下同
朝焼けで始まった物語は、だんだん夜に、夕方に向かって巻き戻されていく。近過去から遠い過去、あるいは抽象から具体へと向かうことで、相手の愛情を実感に変換しようとしている。その愛情の最たるものは、「向き合って 泣き合って/抱き合って わたしの名を/何回も何回も 呼んでくれた」という事実だろう。ふたりの間に何がしかの波乱が生じていて、それを乗り越えられたということをこの一連で端的に表現している。しかし、語る「わたし」はそれで良し、ハッピーエンドだ、とはしたがらない。
「向き合って 泣き合って/抱き合って あなたの名を/何回も何回も 呼んでもいいかな?」と問い掛けたがる。つまり、この先にもいずれ波乱があることを予感している。
極めてポジティブにとるなら、「わたし」と「あなた」が反転していることから、"今までにあなたが引き受けてくれた役割を、これからはわたしが引き受ける"という意志の表明である。しかし、一つの可能性として、(これは私の性格に起因するかもしれないが)「わたし」は「あなた」に対して、また不安を解消する役割を担わせようとしているのではないか、という疑いが浮上する。この先に不安を持ち得ない人物であれば、そもそもこの問いは生じようがないからだ。
過去を引き出してきて語る「わたし」は、未来に起こり得る諍いを予見し、「あなた」に問い掛けてみせる。そして、その不安を払拭せしめんとして、
儚い光がほら 消えないように
歩いていこう
ずっと ふたりのまま
と語りを閉じる。
前途に希望を抱いているのであれば、果たしてここに「儚い光」という表現を配置するだろうか。
辞書を引くまでもなく、儚いとは"虚しく消えていくさま/頼りなく弱弱しいさま"を表す。「あなた」が「わたしの名を何回も何回も呼んで」みせても、「わたし」は不安の芽を見つけ出してしまう。
少し先の未来では
さて、「儚い光」はどうなっただろうか?
MVは歌詞より少し未来の情景を映し出しているものだと仮定できるだろう。「わたし」を女性と仮定するのであれば、既に「わたし」は去ってしまったあとのようだ。「あなた」たちは銘々、「わたし」との思い出をなぞれるような場所に佇んでいる。ふとした瞬間に「わたし」の気配じみたものが現れる。言うまでもなく、過去に存在していた「わたし」たちだ。
國分功一郎氏は、記憶について『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫、2021)でこう語る。
トラウマとは、自分や世界がこうなって欲しい、こうなるだろうという予測を、大きく侵害する想定外の出来事の知覚や記憶のことである。
記憶はそもそもすべて痛む。それはサリエンシー〈引用者註:精神に興奮状態をもたらす新たな刺激〉との接触の経験であり、多かれ少なかれ、トラウマ的だからである。
「あなた」は「わたし」のことを思い出すとき、引っ搔いてしまったようなチリチリとした痛みも同時に再生している。
MVにおける語り手は「あなた」である。なぜなら、語り手と語る対象には絶対的に距離が必要であり、過去に存在した「わたし」とMV上の現在に存在する「あなた」には時間的・空間的距離が成立しているからだ。
MVでは「あなた」が現在において過去の恋人のことを語っているとしよう。すると、MVにおいてこの歌詞は全編において「わたし」から「あなた」に向かって放たれた言葉が繋ぎ合わされたものだと推測することができる。断片的に再生される「わたし」にまつわる思い出たち。それらを繋いでいっている。
ところで人間は、事象に対して一定のストーリーを付与することを好むらしい。自分にとって何か不合理なことが起こったときにも、ストーリーを作りあげることで一定の説得力を持たせることが可能になり、それによって自分自身を納得させることができる。
だから、MVにおける「あなた」は「わたし」の姿や言葉を繰り返し思い起こし、記憶にある重要な場所に己の身を寄せてみることで、少しずつストーリーを組み上げて、別れを昇華する準備を整えていく。その準備には長い時間がかかる。雲が流れて、空の色が変わって、ドライフラワーが飾られるほどの長い時間が。言葉としては語られないが、明らかに映像では膨大な時間が流れ続けている。
"あのときの彼女の行為にはこうした意図があったのではないか””あの発言をしたときに彼女は何を見ていたのだろうか"そうした思索のうちに一端の糸を見つけ、己の納得できる絵柄を織り上げていく。今に続く過去を編纂する。
そうしてやっと一綴りのストーリーが組みあがったその時、「あなた」たちは外へと踏み出す。
いったいどこに綻びが?
どうやらお互いに憎み合って破局したわけではなさそうだ。ではどこに綻びがあったのだろうか? 私は「わたし」の意志に綻びがあったのではないかと考える。すなわち、
儚い光がほら 消えないように
歩いていこう
ずっと ふたりのまま
という意志である。
好意的にとればもちろん、苦しみもふたりで乗り越えていく、という、ただそれだけである。しかし細かく考えると「わたし」はふたりでいる未来を絶対的に信じられるものとして捉えていない。
少し前にちらりと述べた、「儚い光」である。「消えないように」すなわち消えんとするイメージを「わたし」は抱いている。儚い光に対して、確かな強い光へと変わっていくイメージを持っていても差し支えないはずである。むしろ、未来に希望があるとすれば、そちらのイメージに転化するようが自然のように思う。
また、「ずっと ふたりのまま」とあるが、「まま」は現状を維持することを示している。ここに他者が参入してくることを、「わたし」は許さない。二者間の閉じた世界に「あなた」が身を置いてくれること、置き続けてくれることを望む。一種の理想郷である。
しかしながら、時間は二者の閉じた世界が構築されることを許さない。他者というのは何も人間に限らず、世界に存在する事物、MVに出てくるものであれば花や洋服、映画や鏡に至るまで、すべてが移ろっていく。花は咲きいずれ枯れるときを待っているし、洋服は着るごとに風合いが変わっていく。映画はクライマックスを迎える、鏡は割れる。「ずっと ふたりのまま」ではいられないのだ。
逆説的に言えば、"ずっとそのままであることはない"ことを受け入れることができてこそ、「ずっと ふたりのまま」という願いが叶う余地はある。
「わたし」はこうした事実が受け入れがたく、ふたりで過ごした場所から立ち去って行ったのではないか。あくまで推測でしかないがしかし、MV中の「わたし」が過去の姿でしかないこと、「あなた」が過去の象徴たる場に留まっていることから、あながち間違った解釈ではないのではないかと思う。
移ろうことを拒むがゆえにそこから立ち去らざるを得なかった「わたし」をどうにか理解しようとして、「あなた」はひとりひたすらにそこに留まる。
因果関係とは直進する時間のある地点の出来事を「原因」と見なし、その後のある地点に起きた出来事を「結果」と見なす思想によって成り立っている。因果関係は直進する時間にはじめから組み込まれているわけではなく、多くの場合「結果」の大きさに注目して、それ以前に起きた出来事を「原因」とするような、ある思想的な枠組みが作り出すものだ。
「わたし」との破局を重大な結果として、過去へと遡ってその影に原因を探す。単にもう戻らない時間を慈しんでいるだけかもしれない。しかしその慈しみは半ば自傷的な側面を持っている。わざわざ己の傷口を拡げてまで、記憶の内を探すのである。
意志か選択か
ここまで歌の状況とMVの状況を私なりに整理してきた。
歌における語り手である「わたし」は「ふたりで歩いていく」未来を選ぼうとして語りを閉じている。しかし実際、少し先の未来に「わたし」は存在していない。MVでは彼女は去ってしまっている。そしてMVにおける語り手である「あなた」は過去を参照しつづけている。
「あなた」は過去を参照しながら、ふたりの距離が離れ始めた地点を探してしまっている。「わたし」が別れの意志を固め始めたのはいつからだったのか? どちらに原因があったのか? そうしたことに思いを巡らせながら、思い出の場所に留まりつづける。
國分功一郎氏は『中動態の世界ー意志と責任の考古学』(医学書院、2018)でこのように指摘する。
「リンゴを食べる」という私の選択の開始地点をどこに見るのかは非常に難しいのであって、基本的にはそれを確定することは不可能である。
ところがそのリンゴが、実は食べてはいけない果物であったがゆえに、食べてしまったことの責任が問われねばならなくなったとしよう。責任を問うためには、この選択の開始地点を確定しなければならない。その確定のために呼び出されるのが意志という概念である。
「わたし」に責任を求めるのか、それとも別れの意志を抱かせた「あなた」自身を責める方向に行くのかは分からないが、"どうして"と開始地点を求めるからこそ、「あなた」は苦しんでしまう。
どちらに原因があるのかを追究することを止め、致し方ないことだったのだと諦めたとき、おそらく「あなた」は「わたし」の意志ではなく選択を受け入れたのではないだろうか。受け入れられたからこそ、儚い弱弱しい光の中ではなく、強い光に導かれるようにして、留まり続けた場所から離れていくことができる。
そして、「わたし」の不在を引き受けられたからこそ、他者から受け入れられる素地ができたのではないだろうか。「ふたり」だけで世界が閉じていたときには何とも頼りなかった光は、ここに至って確かな形を得ることができたのである。
「あなた」がすべて語っている?
それでも、『ふたり』にまつわる諸々のインタビューをめくってみると、この曲はあたたかい曲として語られている。
手許にある一冊から引いてみても、この通りだ。
切なさや苦しさを感じさせるこれまでのSixTONESのラブソングとはまた違って、『ふたり』は優しさや温もりを感じる楽曲なんですよね。今よりももっと前に進んでいけるような人生ソングに近いところもある楽曲なので、SixTONESとしてもちょっと新しい試みでもあるのかな、と。
注意しなくてはならないのは、この曲の歌詞が一人称の語りの形をとっていることだろう。視点は「わたし」に限定されている、つまり、「わたし」が知覚し考えていること以上のことを、リスナーは受け取ることができないということだ。
そして、語られている内容はかなり絞られている。「わたし」が「あなた」を眺めている時間に、「あなた」についての随想をしている、それだけに限られている。「あなた」についての情報は、いかに「わたし」にとって有益なことをしてくれたか、というだけなのだ。決して不都合な「あなた」は語られない。極めて恣意的につくりこみされている。
おそらく「あたたかみ」の根拠はこれで、私が違和感を持つのもここだ。歌詞の語りがすべてだとすれば、「あなた」は「わたし」に対して与える一方の存在である。
しかしそんなに完璧な存在としていられるだろうか? ひとつの疑いが頭を擡げてくる。「わたし」こそ恣意的につくりだされた存在ではないか?
そうすると、ここまで書いてきたことを覆さなくてはならない。歌詞もMVも、すべて「あなた」が語ってきたのではないか、という可能性にかけなくてはならない。
「わたし」からかけられた言葉と、「あなた」自身の乖離に苦しめられたからこそ、「あなた」から別れを告げた可能性もある。むしろその可能性が高いのではないかと思う。
自分はそんなに理想化されるべき存在ではないのに、「わたし」からは屈託なく称賛に似た言葉がかけられる。「わたし」が「あなた」のことを理想化すればするほど、イメージと自己の乖離は甚だしくなってくる。だからそれを遠ざけるためにも、「わたし」と距離を置かなければならない。そのための手段として「あなた」は別れを志向したのではないか。
熊谷晋一郎氏は『〈責任〉の生成ー中動態と当事者研究』(新曜社、2020、國分功一郎との共著)でこう指摘する。
「現在」の状況を安全なものと感じられるようになってはじめて、時間軸上に自分が今立っている原点が生じ、過去と未来ができあがる。安全な現在に両足を着地させながら過去を振り返ることができてはじめて、過去に飲み込まれず距離を置きながら思い出すことができるのです。距離がない対象は、言葉になりません。現在が安全ではない状況で、言い換えると時間軸上に原点がない状態で過去を不用意に思い返せば、過去形として思い出すのではなく、記憶が現在形となってフラッシュバック、タイムスリップが起きてしまう。
再三の繰り返しになるが、「あなた」が語っている地点は、「わたし」と別れてから時間的・空間的距離が空いた地点である。そして恐らく、思い出の場所に留まっているときには、熊谷氏の言葉を借りれば「タイムスリップ」が起きている状態なのではないか。
家や、ともに出掛けた海は、道を違えた"今"となっては必ずしも心の安全を保証しない。特に家は災害などから人を守る機能を持っているにも拘わらず、かえって彼らの心理的負担を引き起こす装置として働く。
ところで依存症の治療に、自分と似た経験を持つ他者と話すことによって症状の緩和をはかるというものがある。何か切り離したいものがあるのに不可能だからこそ、薬物なりアルコールなりの力を借りて一時的に記憶を切断する。そこから依存が始まる。別れの意志を持つことと似てはいまいか。
六者六様に「わたし」との別れに苦しみ、なにがしかの切っ掛けで偶然外に出た。そこで経験を分かち合うことにより、自分の過去を受け入れて進んでいけるようになった。
そう考えなくては、「ずっと ふたりのまま」と言いながら6人で歩もうとするラストシーンとの整合性がとれない。
6人で語らうあの橋こそ「あなた」たちにとっての安全基地であり、過去に囚われていた「あなた」から過去を引き受けた「あなた」に転換したことを象徴する原点なのである。
おわりに
私は『ふたり』の歌詞およびMVから、以上のように考えた。けれど、テクストが書かれたこと以上のことを語らない以上、読みの可能性はさまざまに開かれている。
少なくともひとつの読みとして、自分の頭にある情景を整理してきたことによって、他の読みの可能性にも目を向けられそうだ。これから公開される楽曲にもさまざまな読みの多層性がありそうだと感じているから、それを待望してこれからもSixTONESの音楽を楽しみたい。