Pray through music

すとーんずにはまった元バンギャの雑記。

「フィギュア」とか、アイドルとか。

〇この記事にたどり着いた方へ

ご覧いただきありがとうございます。
自己満足で書いているブログです。PLAYLISTの大我さんを見て、歌詞を読んで、それからここ最近の雑誌やら何やらを見て思っていることをつらつら書いているだけです。

www.youtube.com



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SixTONESについてというよりは「アイドル」とは?ということの方が比重が大きいです。

 

 

〇本題


1.「フィギュア」MVの少年―球体関節人形

『フィギュア』のMVは、ひとりの少年を主人公に作られている。年の頃まではわからないものの、おおよそ中学生くらいだろうか。赤い眼に金~ブルーのグラデーションの髪色、半そでに臙脂のベストを着て、スカーフを巻いている。
このMVの第一印象は、「球体関節人形がいる」ということだった。
「フィギュア」といったとき、関節が可変なものも、固定されているものも存在している。この少年の場合、各シーンにおいてポージングが変更されているから、関節可変なものと見做してよいだろう。また、各シーンにおいて、背景が動いても少年のポージングが変わらないことから、実際には生命を有さない存在であるとしても許されるだろう。
(もちろん物思いに耽って動かないということもあるだろうが、この曲に関しては生命をもたない有機体としてのフィギュアであると考えたい。)

球体関節人形、ドール。日本だとそこから発展したスーパードルフィーが有名だろうか。

dollfie.volks.co.jp


上記のサイトを見るとわかるのだが、ドルフィーは未完成であることが売りである。
自分の思い通りにパーツをカスタムし、オリジナルのお人形へと仕立て上げる。
ドールは繊細なので、仕立てて、手に入ったあとも、手入れをしてやらなくてはならない。

そして、そのドールの文化において興味深いことがある。
新しいドールを自宅に迎え入れる際、「お迎えセレモニー」を行うドールオーナーが少なからず存在することだ。
その儀式性についてはサビさんのブログが詳しいと思う。

note.com

人形たちを「人間」に見立て、人形を「お迎え」する。以下、サビさんのブログから引用する。

「お迎えセレモニー」には人形が道具としてではなくその目的主体として存在するという特殊性のために、「人『遊び』」というメタ・メッセージが内在しているということである。参加者には「これは聖なるものであり、真実である」というメタ・メッセージの下で「儀礼」と認識しつつも、どこかで「遊び」(嘘)ではないだろうかという疑義が不可避的に生じている。「お迎えセレモニー」の場では、「人」の儀礼のパロディのような疑似的な「儀礼」が行われ、参加者に「儀礼」で「遊んで」いるかのような不思議な感覚をもたらすのである。

 

この構造は何かに似てやしないだろうか? アイドルを愛でるうちに、〈「これは聖なるものであり、真実である」というメタ・メッセージの下で「儀礼」と認識しつつも、どこかで「遊び」(嘘)ではないだろうかという疑義が不可避的に〉生じてはいないだろうか。
つまりは私たち自身がアイドルでお人形遊びをしてはいないだろうか。
ドールを受け入れるのとは反対の手順ではあるものの、おなじ手続きをしてはいないだろうか。人間を偶像化する遊びをしてはいないだろうか。

儀式、という点であれば、私たちもいわゆる「祭壇」をつくる。アイドルたちの公式写真を飾り、表紙を飾った雑誌を飾り、ときに供物のように食品をその前に捧げる。捧げた食品は、捧げたファンが消費する。日本の神道の場合、儀式のうちに神に捧げた供物を食することを「直会」といい、これは神と人とが一体化するために行われる。

www.jinjahoncho.or.jp

つまり日本のアイドル文化とは、言葉こそアイドルと、西洋のものを借りてきているものの、本質的には神道のやり方に則って、偶像たちと疑似コミュニケーションをとっている。

あるいは日本的な神仏習合八百万の神的な価値観も影響しているのかもしれない。
私たちは思いがけない事態にあったとき「神様助けて!」と思うし、チケットの神頼みをする。チケットが当選したら、「〇〇くん、当たったよ!会いにいけるよ!」なんてSNSに書く。そこにいない誰かに、超越的な存在に、語りかける。

そしてアイドルは未完成であると同時に完成されたものでなくてはならない。
未完成なものに聖性を見出だし、人形⇔人間を行きつ戻りつさせる。

私たちは球体人形を愛でている。
「代替不可であれよ」と願われるフィギュアは、さしずめ自分好みにカスタムしたドールであるとも云えてしまう。

 

2.振り付けについてーピノキオ

さて、『フィギュア』の振り付けについて。
"操り人形"だと思ってしまった。操り人形といえば、『ピノキオ』が思い浮かぶだろうか。
ディズニー版の『ピノキオ』は確か概ねこんな話だった。

子どものいないおもちゃ職人ゼペットは、操り人形のピノキオが自分の子どもになるように願う。その願いは聞き入れられ、ピノキオは生命を得た。
世間知らずなピノキオは、詐欺師の狐とその子分のウサギに唆されてサーカスに売り飛ばされてしまう。

糸のないのに動く、物珍しい人形としてピノキオは人気を得た。ある日、家に帰ろうとしたところ、怒ったサーカスの団長に捕らえられてしまった。
どうにか抜け出すも、詐欺師の手によって今度はどんな悪事も許される「プレジャーアイランド」に連れていかれてしまう。ピノキオは、悪いことは愉しいことだと認識させられていく。


"あなたまだ十分こどもでいいんだよ"と諭される少年、"汚れていくだけの街"で"隠してた心はもう見つからない"少年はあまりにもピノキオとイメージが重なってこないだろうか。


さて、このピノキオ、最終的には人間の子どもとしての生命を得るわけだ。だが、その生命ですら、"正しい大人"が考える"正しい子ども"としての振る舞いをしたからこそ得られたものである。

具体的に言えば、ピノキオを心配して捜索に赴き遭難したゼペットを助ける、という善行。
もし仮にピノキオがゼペットの救助をやり遂げなければ、彼は人間の子どもとしての生命を得られなかっただろう。
人の子どもとしての生命すら、そもそも大人の都合によって欲されたものなのである。

善悪、ということは抜きにしても、おもちゃ職人である、ということはつまりゼペットは商売人であり、貨幣経済の枠組みにある。映画を見る限り、ともに工房を営んだり、その技術を継承したりする相手もいない様子だ。長い間ひとりで立ちつづけるために、おもちゃを求める相手との駆け引きは必須だろう。
そもそもゼペットは何故子どもを願ったのか? ただ寂しさを埋める慰みのための子どもであっても、技術の継承者としての子どもであっても、どちらにせよピノキオは大人の都合によって作り替えられてしまった存在に他ならない。

ピノキオの話がずいぶん長くなってしまった。
『フィギュア』に話を戻すと、SixTONESの姿は本当にピノキオよろしく、糸のない操り人形のようだと思う。
サーカスの舞台に立った6体のフィギュアは、物珍しさに引き付けられた客の前で嬉々として踊る。

操り人形は、当然、人間の子どもよりも軽い。それを表すかのような軽やかなステップ、大人が子どもに求め得る無邪気さ、首を振り揺れるかわいらしさ、どこをとっても「可愛いお人形」の総体だ。

「可愛い」の今日的な意味のひとつは、"自分に害をなさず、心をなごませるもの"に附される感情だ。

news.yahoo.co.jp

上記記事より入戸野宏氏のコメントを引用する。

敵や嫌いな子というのはかわいくないですよ。なぜなら自分に危害を加えるんじゃないかと思ってしまうから。逆に危害を加えないことがわかったら、かわいいと思えるわけです。

自分に仇なすものではないから可愛いわけで、自分の想定外のものは可愛くないのである。
実際に鋭利かどうかは置いておいて、自分との関係性において鋭利さを切り取られたものこそが、「可愛い」ものとして認められる。

だから、思い通りに操られる『フィギュア』は「可愛らしい」振り付けでなくてはならない

3.少年と虹色

次にPLAYLISTでSixTONESの着ていた衣裳を考えたい。SixTONESのなかで唯一、大我さんだけが襟のない服を着せられていた。同時に、彼だけがスカーフを巻かれていた。
MVの少年を思い起こすとき、少年もスカーフを巻いていた。
襟のある服は、比較的フォーマルな場面で用いられることが多い。対して襟のない服は、カジュアルな場の衣服としてとらえられる。

もちろん、大我さん以外の5人の服装が大人らしいものかと言われると、そうでもない。基本的には比較的柔らかい素材であったり(慎太郎くんの羽織とか)、ひらひらと揺れる要素があったり(ジェシーくんの肩の布とか)と、こちらもやはり少年らしい感じがある。


そして、5人の服を並べたとき、私は虹を思い浮かべる。
虹は様々な文化圏で、神や境界といったもののモチーフとして扱われる。

たとえば、創世記9章12~16節では、神との契りの証として登場する。

あなた方ならびにあなた方と共にいるすべての生き物と、世々永久にわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、私は雲の中に虹を置く。これは私と大地の間に立てた契約のしるしとなる。私が地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現われると、あなた方ならびにあなた方と共にいるすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。雲の中に虹が現われると、私はそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。

この契りは、人間が神に供物を捧げるのではなく、神が神自身に与えるという構造になっていることに留意したい。
供物はカインとアベルのことを思い起こせば、争いのもとともなる。人間は実に自己中心的な生物であり、神は善良な世界を創るためにノアの一族のみを選び洪水を起こした。
そして水が引けたあと、神は虹を発生させることによって己の心を落ち着け、今後は洪水を起こさないようにすると誓う。

虹は人間への失意の象徴である。

そういえば、虹で思い出される『オズの魔法使い』のドロシーは、初めは"どんな願いも叶う夢のような国があるから、そこに行きたい"と考えていた。

Somewhere over the rainbow
Way up high
There's a land that I heard of
Once in a lullaby
(虹の向こうの空高くどこかに かつて子守唄で聞いた国があるはず)

Somewhere over the rainbow
Skies are blue
And the dreams that you dare to dream
Really do come true
(虹の向こうのどこかに真っ青な空で 信じてた夢がすべて叶う場所がある)

Someday I'll wish upon a star
(あたしはいつか星に願うでしょう)
And wake up where the clouds are far behind me
Where troubles melt like lemondrops
(そうして目覚めると雲は遥か彼方に 悩みはレモンドロップのように溶けだしていく)
Away above the chimney tops
That's where you'll find me
(煙突よりもずっと上のほうで、あなたはあたしを見つけるの)


しかし彼女は冒険のおわりに、"家が一番良い"と結論づける。外の世界に期待を抱かなくなるのである。

これはともに冒険したカカシ、ブリキ、ライオンと比しても面白い。ともに冒険をした三者は、もともと自分の家を持っていない根なし草だったということもあろうが、自分が異邦人として入っていった地をそれぞれ統治することになる。
冒険のうちに、オズの偉大な魔法使いが詐欺師である、と知ったことも大きいのではないか。つまり、「家の外≒他者は信じきるに値しない」、というメッセージを受け取ってしまったのではないか。

もちろん、北の魔女や、ともに旅した三者は信じられる存在であるものの、王国の統治者が詐欺師である、というのは少女の失望を引き出すのに充分だろう。


同時に現代に目を向けると、虹は「多様性」「共存」のモチーフにもなっている。
文化によって色の数は異なるものの、様々な色を含むことが、人種や民族、セクシュアリティを越えた理解の象徴になっている。

 

こうしたことを踏まえたとき、虹色は、少年の失意、そして信じられるのは自分(たち)自身のみである、その上でどのように折り合いをつけていくかを示したい、という言外のメッセージを受け取るのは些か穿ち過ぎか。

つまり、
①少年=裏切らないものを探す神、と考えた時には、裏切られそうになる度に自分の周囲に多様な個性を持った虹を産み出すことで平安を保っているのではないか。
②少年=裏切らないものを探す子ども、と考えると、「家の外≒アイドルではない世界」は危険である、というメッセージを発することで、彼らを「家の中≒一般的なイメージのアイドル」に押し込めようとする力があるのではないか。

③そして、現代的な意味を踏まえるのであれば、多様性を受容し、従来のアイドル像との共存を模索するSixTONESのたおやかな闘争の表れでもあるのではないか。

 

ジャニーズ事務所がつくりあげるアイドルは、永遠の少年である。誰かの空想上の息子であり、初恋の相手であり、慈しむべき存在だ。
ただしそれは、彼らが他者からの欲望の産物を演じている場合に限る。

まるでピノキオの父たるゼペットがそう望んだように。まるでドールをカスタムしていくときのように。


そう言った風に望まれる「ジャニーズのアイドル」が"ショーウィンドウに並ぶ僕ら/代替不可であれよフィギュア/あるがままで"と唄うことで、一抹の不安がよぎる。


脱却を図りながらもジャニーズという呪いに捕らわれていた彼らの一瞬を切り取ったのがこの『フィギュア』という曲なんだと思う。
そしてその呪いは、彼らがジャニーズである限り、薄まることはあっても解けることはないだろう。

大我さんがあの衣裳を着たのは、その「ジャニーズのアイドル≒フィギュア≒欲望」の代表格としてだろう。そしてその周囲にいる彼らの衣裳も、それを補強するものだろう。

 

4.代替不可であれよフィギュア

 

ところで、私は彼らのJr時代を、リアルタイムでは知らない。

けれど、様々な人に語られる彼らや、まだ残っているJr時代のYouTubeの動画、バックナンバーが手に入る雑誌、そういったものを見ていて、そして思う。

 

"ジャニーズをデジタルに放つ新世代"

目まぐるしく変わる技術の革新、それに伴う人間の行動の変化、そしてそれらがあっても変わらない人の欲望。それらとどう相剋していくか。

彼らに課せられている至上命題はそこにあったのではないか。

 

今や多くのジャニーズがYoutubeInstagramTwitterなどの比較的新しいメディアを横断した企画を打ち、世界のトレンドを意識した音楽を発信している。

これは本当にありがたいことであると同時に、危険なことでもあると思う。

私たちは、レスポンスこそなくとも、簡単にアイドルたちとのコンタクトを取れる時代に生きてしまっている。お人形遊びは、前よりも容易く行われるようになっている。

 

少女マンガ家の萩尾望都氏は言う。

講演会などで「マンガ家になるためにはどうすればいいんですか」とよく聞かれます。そういうときに必ず答えるのは「自分の作品を身近な人に読んでもらって、相手の意見を聞くように」。それから「決して相手の意見を聞かないように」。ホントに両方、必要なんですよ。どちらに偏っても、ある「穴」に落ちてしまう。

(中略)

読む人がすべてを理解してくれるわけでもないし、トンチンカンなことを言ってくる人もいるじゃないですか。それに振り回される必要もないですよね。

といって「私の描くものは私にしか理解できないわ。一〇〇パーセント面白いわ」と思っているのでは、プロになるのは無理だし。本当に一〇〇パーセント面白いならかまわないんですけどね。

[『私の少女マンガ講義』著者 萩尾望都/インタビュー・構成 矢内裕子、2021年7月、新潮社文庫]

 

私たちはアイドルに向かって、どんな意見も言える。そしてアイドルたちも、どんな意見も受け止められる。

その中にあって、自分の芯を保ちつつも、柔軟に受け入れること。どちらがなくても成り立たない。

そういえば『MG no.6』(2021年7月、東京ニュース通信社)で、『フィギュア』を作詞作曲されたくじらさんは、こう言っていた。

エンターテインメントやそれに隣接した世界で活躍しようとしている人は数字や露出度、好感度によって態度をコロコロと変えていく…。何者かになろうと足掻くことの大変さ、その道中で人格を形成していく難しさなどを書きました。

僕らは皆裏切らないものを探して生きているのだと思います…。

ファン、周囲の仕事仲間、それ以外の人。インターネットがインフラとなっている今、「何者かになろうと足掻く」葛藤は、前時代よりも増大しているだろう。

生きているうちに触れられる社会の範囲は広がり続けている。対して自分は自分の形をしたままである。彼らに対して「態度をコロコロと変えて」いった人たちですら、自分が何者になれるのかという迷いの中にいたのかもしれない。

 

今アイドルに求められているのは、こんな時代だからこそ、「俺らは俺らでしかないし、誰も俺らにはなれない」という当たり前の事実を示し続けることではないのか。

ジャニーズのアイドルであり続けているという事実。

誰かの欲望を満たす装置でもあるけれど、誰かの欲望だけに振り回されるわけではないという事実。

 

現代のアイドルは恐らく、すべての迷いのある人々のロールモデルであり、アイドル自身の所有物である。

 

先に述べた"ジャニーズのアイドルという呪い"は解くべきものではなく、どのように御していくかを考えるべきものだ。

アイドルである自分、何者にもなりようのない自分を認めていったうえで、御しがたい自分や世界の存在も眺め、立ち位置を定める。決して『フィギュア』で遊ぼうとする人間の所有物にはならないよう、しなやかに生きる。

 

だからこそきっと、この曲は「エールソング」として位置付けられるのだろう。