紙の本の話
読めていない本がある。たくさんある。
床の上を占領し、いつになったらページを開くんだと問いかける彼らそれぞれにわずかな罪悪感を持ちながら、眠りにつく。
今日、また、本が増えた。
学生のころに買った『走れメロス』(角川文庫)と『人間失格』(集英社)を買い直した。
なにか忘れていることを、思い出せそうな気がした。
『走れメロス』に収められている「駆け込み訴え」を、紙の上で読みたくなった。
『人間失格』のあの自意識を、懐かしく思った。
思えば、本は、いつだって静かだ。雄弁に語り、心を揺さぶり、ときにはBGMを伴う。けれど、静かだ。
本そのものは何も語らない。
語るのは、そこに書かれた文字だ。
さらに言うなら、文体だ。
そしてその文体を扱う筆者だ。
筆者自身が身体をいくら透明にしても、固有の文章はその形を再現しようとする。
日本語のルールに則って、ときにはルールをはみ出して、ことばが踊り出す。
読書は楽しい。
本は開かれるのを待ちながら、そこにただただ佇んでいる。
とうとうベッドの上を占領し始めた本の姿を眺める。
置いてけぼりにしてしまった傘のように忘れてしまったわけではない。
本は群れない。孤独である。
誰かがその身体に触れるまで、おとなしく待っている。それも、可哀想に思われたくてそうしているのではない。
いつか来る出会いを確信して、そこに凛と佇んでいる。
紙の本を読む楽しみのひとつは、孤独なものが、孤独を受け入れているものに出会うことなのだと思う。