まなざされる身体ー自分のなかにある大我さんを整理するはなし。
〇このブログにたどり着いた方へ
読んでくださってありがとうございます。
このブログはあくまで私が私のために書いている記事です。
自分が大我さんに対して何を感じているのか。6月時点で思っていることをただただ書くだけ。
自分の中にある大我さん像の整理なので、徹底的にあわない人にはあわない記事だと思います。
〇本題
「見ることには愛があるが、見られることには憎しみがある」
見ることには愛があるが、見られることには憎しみがある。見られる傷みに耐えようとして、人は歯をむくのだ。しかし誰もが人間になるわけにはいかない。見られた者が見返せば、今度は見ていた者が、見られる側にまわってしまうのだ。
「愛」とは何でしょうか。『箱男』は社会から隔絶した、段ボールを被った浮浪者の物語です。 それも、たったひとりの箱男が出てくるのではない。箱男は、ある日、箱男を見つけて、自分も段ボールを被る。伝染するように、新しい箱男が生まれていく。
人からの視線を受けることに疲れた男たちが、箱男になっていく。名前を持たなくなった箱男たちは、どこに行くのでしょうか。
「見るー見られる」という関係性は、安部文学の中で多く取り上げられているように思います。例えば『他人の顔』は、顔を失い、人からのまなざしを忌避するようになった男 の物語だった。『鏡と呼子』は、望遠鏡で一日中村を監視し続ける男。
「見る」ことに含まれる愛はずいぶん暴力的なものではないか。
そして、私は大我さんについて、その「見る」ことを「見られる」ことに変換して輻射し続ける人だと感じています。
輻射は、車の輻みたいに、中央から周囲に射出すること。物体が電磁波や粒子線の形でエネルギーを放出すること。また、その電磁波または粒子線。
アイドルに求められることは何か。ジャニーズに所属するアイドルにおいては特に、少年性が強く求められている、というのはよく言われることだと思います。
そういった目線で見た場合、確かにSixTONESのYouTubeで表れる彼らの姿は少年のようだ。企画自体も、かくれんぼ、低予算でできるゲーム、少し前なら1,000円自販機…等々、……「円熟した大人」からイメージされるものではありません。
そして、大我さんはそうした少年性が要請されていることに対して極めて自覚的な人だと思います。(もちろんSixTONESの6人それぞれが、少年性を有していることは重々承知しています)
大我さんは、YouTubeチャンネルのみならず様々な媒体で、ファンが自分を好きなところ、好まれていると思うところに「愛くるしい」ことを挙げています。
「愛くるしい」は成熟とは真逆の概念です。年若い女性や子ども、頼りない存在に宛てて向けられる愛情を示します。
大我さんはよく、「男らしくありたい」「男らしくあらねばならない」ということに言及するように見受けられます。「男らしい」とはつまり頼りがいのある人物であることを指している。また、子どもじみた言動も、「男らしい」とは正反対でしょう。
にも関わらず、自分の美点として、そうした箇所を挙げているのです。
以前私は、大我さんは自分が子ども・女性的役割を期待されていることを感知している、と書きました。
オフィシャルに出てくる大我さんは、おそらく相手の感情を感知する器としての機能を担っていると思うのです。
アニソンシンガーとして活動する大木貢祐氏は、『ユリイカ』51巻18号で、下記のようなことを述べています。
日々の生活における突然の「好き」の表明は、いささか外傷的ですらある。対象はそれに耐えられず、向けられたのと同じ熱量で、反撃に転ずるかもしれない。〈中略〉
しかしアイドルにはその位置に据え置かれる準備がある。(中略)
心の神棚に鎮座する、吸音素材のモニュメント。アイドル=偶像がもともとそうであるように、その中身は空っぽで、もちろん本質は不在だ。
(「碑面の禁じられた検閲」より引用)
もちろん、生の人間であるので、まったく空である、ということはないでしょう。
しかし、アイドルである、ということは、多くのファンの欲求に応えることです。ファンが彼らの物語を埋めていくための余白を多く残すこと。まったく空っぽのモニュメントに刻み込まれるのは、そのアイドル本人の物語とは決して言い難い。私の空白を見たしていくための物語でしかないのです。
生きている人間であることを踏まえて、大木氏はこのようにも述べます。
ただ物語を書き込むだけの媒体を拡げておくだけではみんな気づかず通り過ぎていくだけだから、結局は何らかの刺激を与えてあげることになる。刺激としての属性を足していく。
(同上)
私たちがアイドルについて言及するとき、大木氏が言うように、なにか呼び水となるものが必要です。それは彼らの提供する音楽であったり、ビジュアルであったり、パフォーマンスであったりします。
そして「愛くるしい」キャラクター性ということを考えたとき、それは対メンバー・対共演者という点において顕著になるのではないでしょうか。
大我さんを対比する
ここで大我さんのことを見るとき、私たちは他のメンバーとの比較、あるいは別の芸能人、さらに一般人までも含めての比較をしながらまなざしています。
この比較、ということについて、言語学者ソシュールのことを少し考えていきます。
ソシュールは提唱しています。言語は恣意的である、と。
つまり、「イヌ」ということばと「犬」という概念は、人間が勝手に結びつけたものである、と。「Dog」だって「Chien」だって、犬だと認識できればそれでかまわないのです。
さらにソシュールは言います。
音韻も概念も、差異だけが意味をもっていて、その言語独特の区切り方を行っていると。
音については、例えば日本人は、音素を五十音にわけて理解します。ほんとうなら、ある程度のボリュームをもっているはずの音韻を、特定の数に切り取り、「ん」と「ん」以外、「あ」とそれ以外……と弁別することによって理解する。
概念も同様で、さっきあげた「イヌ」は、イヌ以外のものとの差によって認識されます。犬の鳴き声は「ワン」であり、猫の「ニャー」とは異なる。犬は人間と異なり、四つ足で歩く。犬は……。
つまり私たちは「名前を知っている相手」に対して、別の「名前を知っている存在」、あるいは「名前を知らない存在」との対比を常に行っていると言えるのです。
対比によって、大我さんのキャラクターを浮き彫りにしていく。
また、それはまなざすファンの側だけではなく、本人たちも自覚的に行っていることだと言えます。
例えば大我さんと慎太郎くんは、ジャニーズ事務所に入所してからの関係を指して「兄弟」と言われることが多い。彼らは実際の兄弟ではないにも関わらず。慎太郎くんも大我さんも、その関係を口にします。
また、髙地くんの場合、「クソ坊っちゃん」など、他のメンバーに比して、大我さんがお金持ち、箱入りであることを示す頻度が高い。庶民的である自分と、富裕層であるがゆえのおっとりとした感じの対比。
樹くんは比較をするところを、やや離れたところから見ているでしょうか。ただ常識的な樹くんと、少々ぶっ飛んでいる大我さんのコントラストがANNでは強く打ち出されるように思います。
北斗くんは「自分はこうでありたい」と内在する面を主張していくが、大我さんは決してそうではない。これはファッションにおいてもっとも顕著でしょうか。
そしてジェシーくん。私は彼が、もっとも大我さんを器にさせる人物だと思うのです。
最も器化させる男ジェシー
私は以前、ジェシーくんは大我さんに呪いをかけている、と書きました。
大我は女子である、と。
この呪い自体が、極めてジャニーズ的だと感じます。
柴田英里氏は、ジャニーズと宝塚の比較において、下記の指摘をしています。
ジャニーズは、「男」の役割も「女」の役割も存在しない生殖のない中性的な空間であり、男でも女でもないような少年たちが「男性性」から宙吊りになったまま、様々なバランスで「少年性」のセックス・アピールをしつつ存在している。
柴田氏はそこに、大塚英志氏が宝塚の少女に見出だしたものと同じ、「使用禁止の身体」を見出だします。生殖を禁じられ、家父長となることを認められない身体。
ジャニーさんが下記のようなことばを残していたのを思い出します。
いちいち恋愛禁止だと言わないと解らない子はトップアイドルになれない。
そんな当たり前のこと言われなくても守れる子しかトップに行けない。
だからわざわざ恋愛禁止と公言しないだけ。
歳を取って周りがアイドルとして認めなくなったら恋愛も結婚もすればいい。
ただアイドルの必要性を求めているうちはアイドルに徹しなければならない。
アイドルは仕事じゃない。
そういう人種なの。
ジェシーくんが大我さんのことを女性的な存在として捉えるとき、この「使用禁止の身体」という概念が頭にちらつきます。
ジャニーズのファンの多くは女性である、これは一般的な捉え方であると思います。そして私たちの社会は概ね異性愛を規範として形づくられている。
そうした世の中で、ジャニーさんは、アイドルたちが恋愛することを良しとはしない。恋愛=私たちの現実と地続きになった事象であり、夢想の世界は現実の前に霧散してしまうのです。
ジェシーくんの場合、出会った当時、ほんとうに大我さんのことを女性として捉えていたということのウェイトが大きいですが、そのことばによって、大我さんは家父長の制度を継ぐ男から逸脱した存在になっていく。
女性が家を継ぐ、ということももちろんありますが、現代日本において多数派であるとは言えないでしょう。
そして大我さんもその振る舞いにおいて、慎太郎くんの兄である場合を除いて、決して男性的であるとは言い難い。どちらかと言えば男性的な印象を持たせるSixTONESにおいて、ぐっと女性性が付与される。
メンタリティとして男性性を志向している点は多くのファンから言及されていますが、一目彼を見ただけのお茶の間からはどちらかと言えば可愛らしさが指摘されるのではないでしょうか。
家父長に求められるのは、どっしりとした安定感。
対して大我さんが雑誌でつけられるキャプションは「儚い」「キュート」と言ったものが多いように感じます。
ジェシーくんは、こうしたモードに乗っている。「大我は女子である」という呪いによって、私たちが大我さんに向かって恋愛の地平でつながることを拒んでいく。
そして大我さんも、ときには積極的にそのモードに乗っていく。
ファンのまなざしを真正面から受け止めながらも、ジャニーさんが付与した恋愛禁止のコードを受け入れ、そしてジェシーくんが与える女性的なモードを呑み込んで輻射し、ファンの前にその姿を顕す。
先に「大我さんはそうした少年性が要請されていることに対して極めて自覚的な人」と書きましたが、大我さんはその少年性までも逸脱して、性を有しない、あるいはその両性を有することによって不可侵の存在として生きているように思われてきました。
見られることは憎しみではない
冒頭で、安部公房『箱男』を引用しましたが、ここで再度引用します。
見ることには愛があるが、見られることには憎しみがある。見られる傷みに耐えようとして、人は歯をむくのだ。しかし誰もが人間になるわけにはいかない。見られた者が見返せば、今度は見ていた者が、見られる側にまわってしまうのだ。
ジャニーズのみならず、芸能に従事している人はみな「見られる」ことが生業です。そこに"憎しみ"というコードは当てはまらないでしょう。そこに憎しみがあるのは、現実世界に生きる人間に他ならない。
しかしアイドルは積極的に多くのまなざしを受ける存在ー 、ある種の神聖視をされる偶像として生きている。
「見る」という暴力行為を受け止め、「見られる」存在として構えること。「見るー見られる」の暴力的関係は、無色透明の存在がまなざすことによって発生します。
「見る」存在をファンとして捉えることによって、この暴力的な関係は、崇拝の形に姿を変えていくのです。例えば現実世界でも、見る存在を意識すればこそ、「目にかけてもらっている」ことは喜びに変換される。見られることは一種の快楽へと様相を変えていく。
先に引用した大木氏は結論として、このようなことも述べています。
アイドルであるということは、自分の持つ「コンテンツ」ではなく自分の存在そのものを「プレゼント」として差し出すということだ。
ここで言う「プレゼント」とは、赤ん坊のころに人間が持っていたであろう全能感。赤ん坊は、多くのまなざしに囲まれることによってこそ、生き長らえることができる。
多くまなざしを待望する赤ん坊のような全能感を持ち、「使用禁止の身体」によって不可侵の存在になること、そしてそれらをメンバーとの関わりによって強固にしてファンの前に顕現することこそが、大我さんをアイドルとしての器たらしめているのではないだろうかと思うのです。