Pray through music

すとーんずにはまった元バンギャの雑記。

「愛くるしい」をします。――『ホメホメ聖徳太子』の大我さん

◯この記事へたどりついた方へ

 

読んでくださってありがとうございます。

この記事は、しがない京本担が

ホメホメ聖徳太子の「愛くるしい」にこじらせてるだけの記事です。

 

 

 

 

〇本題 

そもそも「愛くるしい」とは?

 

「愛くるしい」ってなんでしょう。

語源こそ諸説あるものの、ことばとしては「むさくるしい」(むさい+くるしい)と同じ構造を持っています。

「むさい」で十分意味は通じますが、「くるしい」がつくとさらに意味が強調される。

 

中高の古典の授業を思い出すならば、『徒然草』の序段、

 

つれづれなるまゝに、日くらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。

 

を思い出すかもしれません。

 

「あやしうこそ物狂ほしけれ」は「異常なほどに狂おしい気持ちになるものだ」。

 心に浮かんだことを書きつけていると、異常なほど狂おしい気持ちになっていく。

 

ここで「愛くるしい」に戻ると、「狂おしいほど愛おしい」、愛の最上級とも言える表現だ、と判断できます。

 

では大我さんは、なにをもって自分を「愛くるしい」ものとしているのでしょうか?

 

"アイドル"というしごと

 ①庇護されるべき存在

アイドルは、以前の記事に書いたように「idol」(偶像、崇拝の対象)からとられたことばです。

 

日本ではそこから敷衍し、「憧れの的」「成長をファンに見せ、存在そのものの魅力で人々を惹き付ける芸能人」になりました。

 

さらに言えば、「庇護欲を掻き立てる存在」としても定義づけられているように思います。

1980年代ごろの、いわゆる『親衛隊』の出現もこうした概念に結び付いたものだろうとも。もともとの(正しい意味での)親衛隊は、君主を守るのがしごと。自分より上位の存在を守るのが彼らの責務です。

 

つまり、身近にありながら手の届かない、不特定多数に守られる存在であることがアイドルには求められている。

これは日本のアイドル文化にあって、ずっと続いているひとつの潮流です。

 

例えば松田聖子さんが婚約発表をした際、親衛隊は解散になったそうです。

もちろん彼女に恋をしていたからこそ、ひとりの男と添い遂げることを決めた彼女を応援する意義を失った、という人も多いでしょう。

しかし、それだけではなく、特定単数の相手に守られる、遠くにいってしまった存在になったということで、親衛隊はアイドルとしての彼女を応援する意義をなくしたのだろう、と思います。

 

「愛くるしい」は、自分がそうした存在として人々に求められていることへの自覚と、そしてSixTONES5人に対して「無条件に愛されている」という自覚とが重層的に含まれているような気がします。

 

②崇拝されるべき存在

ただ、守られるだけの存在がアイドルというわけではありません。

例えば山口百恵さんの歌を思いだすと、守られるだけの存在であることを拒んでいる。

(余談、私の世代的には、幼稚園~小学生ごろに流行ったモーニング娘。さんの方があっているのだと思うのだけれど、百恵ちゃんの方が書きやすいのです…。)

 

特に『絶体絶命』。

これはざっくり言うと、浮気をしているらしい彼の、浮気相手の女性を呼び出してカタをつけようとする歌。

(残念ながらご本人の公式の映像はないのですが、シシドカフカさんがカバーされているので、お時間ある方は聴いていただければ)

www.youtube.com

 

一輪差しの薔薇の花

その人はずらし涙を隠すの

チラリと視く唇は

コーヒーカップと一緒に震えてる

そこへ彼 話しかける彼

二人共 愛してるって言ったわ

人間模様の絶体絶命

 

さあさあ さあさあ

すっかりカタはついたわ

すっかりカタはついたわ

すっかりカタはついたわ

やってられないわ

その人の涙の深さに負けたの

 

「二人共」愛してるというつまらない男を切り捨てる女性。

若干思うことがありつつも、あー、こんな男といるのは時間の無駄だわ、やってらんないわと。

 

男を自分から切り捨てるのは、「守られるアイドル」、という像からは遠い存在であります。

さらに言えば、彼女は芸能人になるためのオーディションで、「結果を聞く前に、私は歌手になることをはっきり確信していた」というのです。

 

確たる個を持って歌いあげる彼女。評論家の平岡正明氏は、『山口百恵は菩薩である』(講談社)という本を書いています。

菩薩、つまりは人々から救いを求められる対象

 

①で書いた、身近にありながら手の届かない、不特定多数に守られる存在とは相反しています。

むしろ、いつもは遠くにあって、遍く我らを守る存在としてのアイドルだと考えられている。本来的な「idol」に近い意味でのアイドルではないかと思うのです。

 

いつもは、と書いたのは、私たちは何かに心動かされたとき、思わずその存在を呼んでしまうから。

例えば何か恐ろしいことがあれば、「神様助けて!」と思う。何か喜ばしいことがあれば、「神様ありがとう!」とついお礼を心の中で言ってしまう。

 

遠くにありながら、日常の中に溶け込んでいて、人々を救う存在が、アイドルの2つ目の定義であると考えます。

 

そもそも「愛」とは何なのか?

 

私たちは「愛」という言葉に何を思うでしょうか。私はすぐに「恋愛」が思い浮かびます。

ただ、愛と恋は明確に違う。

 

恋は自分の欲求を優先するもの。自分が幸せになるために相手に求めるもの。相手が幸せかどうかは、究極的に言えば、考えない。

先に書いたアイドルの話で言うなら、親衛隊の在り方は恋に近いでしょう。自分たちの近くにあって、手の届かない存在で、不特定多数に守られる存在であってほしい

また、「恋焦がれる」「燃え上がる恋」という言いかたを考えるとき、恋は燃焼するもの、そしていつか尽きるもの

 

愛は相手に幸せになってほしいと考えるもの。相手の幸せが先に在って、それによって自分が幸せになれる。

例えば「愛でる」ということばを思い浮かべる。「花を愛でる」というとき、私たちは花から与えられることを望んでいない。ただそこにあるだけで良い。それ以上は望まない。今、花があることに幸せを感じ、水をやったりして、その花が長いことうつくしい姿を保てるように世話をします。

 

思えばこの5月、スト担さんのtweetには「こんなにSixTONESに愛されてる」「愛しかない」という言葉が溢れている。

つまり、私たちは、SixTONESから「幸せになってほしい」と願われていると感じているのです。

 

そして、大我さんの「愛くるしい」という発言。「自分は愛されている」と感じるからこそ、「愛くるしい」と思われていると考えるのでしょう。

 

そしてここまで書いてきて、できれば避けたかった、でも避けて通れなかったことが。

 

男らしさとの乖離ー「愛くるしい」の語義

ここまで、「アイドルとは?」「恋と愛とは?」でずっと書いていたけれど、どうしてもひとつ避けておきたかったこと、でも絶対この言葉を考えるうえで、避けて通れないことが。

 

大我さんが非常に「男らしさ」を意識する人だということ。

 そして、「愛くるしい」とは主に「子どもや小動物、女性に対して使われる、愛嬌があってかわいらしいさま」を示すことばだということ。

 

ホメホメ聖徳太子で、大我さんはスト5に対してそれぞれ以下のようにほめています。

→北斗くん 「清潔感がある」

→髙地くん 「趣味が男らしい」

→樹くん  「(男としてかっこいい、と前置きして)自分を犠牲にする」

→慎太郎くん「グループ愛が強い」「でも余裕を持って」

ジェシーくん「勇気を貰える」

 

ここから見ても、大我さんは特にメンバーの男らしい箇所に対して最も注目してことばにしている。

 

まず、北斗くんへの「清潔感がある」は、女性に対してはあまり言わない誉め言葉です。

これはジェンダー研究を見るとわかりやすいのですが、「清潔感」はいわゆる「女子力」ということばに内包されています。身だしなみがきちんとしていることは、女子力の一つの指標であり、男性に比べて清潔であることが当然のように考えられている。

逆説的に考えれば、男性は「清潔である」ことが当たり前だとは、女性ほどは思われていない。つまり、「清潔感」は男性であるからこそ強みになります。

(参考: 馬 雯雯「 ジェンダーに関わる表現「女子力」についての考察―「女子力」を巡る記述における言語標識を中心に―」『ことば』第40巻、2019年)

 

次に、髙地くんへの「趣味が男らしい」。これはそのことばのままなのですが、社会的な「男性らしい趣味/女性らしい趣味」というものが大我さんの心の中で確実に分類されている証左だと感じます。試しに大我さんの趣味と髙地くんの趣味を比較してみます。

大我さんは音楽・クッキング・イラストを描く・寺社巡りなど。

髙地くんはドライブ・レザークラフト・バイクいじり・温泉など。

どちらもクリエイティブな趣味を持っているものの、雑誌を見ると、それぞれ主となる読者層が違う。料理をつくる・イラストを描くのは主に女性を、バイクやレザークラフトは主に男性を意識した誌面づくりになっています。

 

樹くんへの「(男としてかっこいい、と前置きして)自分を犠牲にする」は、樹くんを心配してのことばでもあるだろうけれど、尊敬の念がなければ出てこないものです。それも、自分が相手を守る存在であらねばならない、という強い意識のもとでの尊敬がなければいけない。

一般的に、男性の方が女性より体格がよく、力も強い。だから、自分の身を挺してでも守る必要がある。そして、女性だけではなく、グループの先陣となり自分が最も危ないところに行こうとする樹くんに対してはそこをほめる。

 

慎太郎くんへの「グループ愛が強い」「でも余裕を持って」は、上にあげた3人に比べたら、フラットな誉め言葉に見えます。これはきょもしんが兄弟のように過ごしてきたからこそ、兄としてのことばだろうと考えます。

ただ、「余裕を持って」ということばを考えたとき、本人が意識しているかに関わらず、それはまた社会的な男性性を付与されている。試しに「モテる男」と検索してみると、「余裕がある・優しそう・話しやすそう」という条件が提示されるのです。

 

つまり、ここまでの4人に対して、大我さんはジェンダー的な観点から、(無意識だとしても)女性らしさ/男性らしさを自分と対比させて伝えているように思います。

 

(北斗くんが大我さんからのほめ言葉を予想したときに出た「声が低い」「カッコイイ声してる」も興味深いので、気が向いたらそのうち書きます)

 

それでは、ジェシーくんへの「勇気を貰える」はどうなのでしょうか?

 

唯一の言及、「与えられる」ということ

 

ここまでの4人に対しては、ジェンダー的観点でほめことばを伝えてきた大我さん。

しかし、ジェシーくんに対して伝えた言葉のみがジェンダーから離れているように思います。

 

ジェシーくんへのほめことばは、「勇気を貰える」。

 

「愛」ということばに立ち返って考えたとき、それは「見返りを求めず与えられる」ものでした。

そして、ジェシーくんに対して述べた「貰える」ということば、「愛」との親和性が見えます。貰える、言い換えれば、与えられている。

つまり、大我さんは無償の勇気をジェシーくんから与えられている

 

「愛くるしい」を考えたとき、大我さんはスト5から無償の愛を与えられていると感じているけれど、その中でも特に、ジェシーくんに対しては、男らしさ/女らしさを超越したものを受け取っているのではないか、と考えます。

 

外見上のスト5との比較

スト5と大我さんを比較した際、内面的な部分だけではなく、見た目に関しても思うところがあります。

一般的に見て、SixTONESは男らしいイメージがあるのではないかと思います。

 

スト5を見たとき、それぞれ方向性はちがうものの、それぞれ男らしいと思います。

まず、北斗くん。喉ぼとけがしっかりと出ていて、肩幅が広い。眼はどちらかと言えば横に広い。腹筋が割れていることも、筋肉がつきやすい、という男性性を強くイメージづけます。

次に髙地くん。SixTONESの中では細身であるものの、眉毛が濃く、はっきりしている。肩のラインもまっすぐで、アメカジを着こなす。趣味も社会的に男らしいものばかりです。

樹くんは最も細身に見えるが、そのラインが直線的であることで男性性が出ていると思う。また、男ばかりの兄弟であることで培われたのであろう会話のノリもある。即反応する反射神経の良さは、(女性のモテの条件に「おっとり」が入ることを考えると、)男性的特質です。

慎太郎くんは、アクティビティに親しみ、DASH島でも力仕事に勤しむ。SixTONESの中では体格もどっしりしていて、力強い。顔立ちもはっきりしていて、凛々しい印象を受けます。

ジェシーくんは、SixTONESの中では面長で、眉と目の距離が近い。かつ高身長で、男性誌のモデルを務めるぐらいだから、男性から見てもあこがれの体型であることは明らかです。

 

あくまで5人と対比してですが、大我さんは柔らかそうな体つきをしています。また、一般的には高いものの、SixTONESの中では最も身長が低く、かつ喉ぼとけもないから声が高い。そして目はアーモンドのような形をしています。

 

スト5に感じる男性性は、一歩間違えれば威圧感を感じるものになってしまいます。

そこに一目見て柔らかい印象を持たせる大我さんがいることで、怖さが緩和される。

彼らが外見でグループを組む相手を決めたわけではないとわかっていても、結果として威圧感を和らげ、調和のとれた見た目のバランスになっているのではないかと思います。

 

「愛くるしい」をします。

 

さて、ここまで考えて、もう一度「愛くるしい」と大我さんが発したことを考えたとき、もう一つの可能性が浮かんできます。

 

大我さんは、自分が「愛くるしい」存在、つまり子ども的・女性的役割を期待されていることを感知しているのではないか。

 

人の感情の機微に敏感な大我さん。例えば彼の着る衣装を見ても、レースやシフォン素材の多用が特徴のように思います。

(そういう意味で、「金スマ」と「さんま御殿」は印象的でした。直線的なラインのジャケット、かつ喉元を隠すタートルネックをあわせていることで、いつもより硬そうに見えました)

 どちらも一般に女性の衣服の装飾として用いられると思います。

 

そして、その役割に対して、(意識的か無意識かは置いておいて)応えようとしているのではないか。

昨年のアイドル誌でも、ファンが好きだと思うところに「愛くるしさ」と載せていましたね。

 

だからこそ「愛くるしい」自分でなくてはならない。大我さんは「愛くるしい」をします。

「愛くるしい」自分であらねばならないからこそ、スト4と自分を男らしさ/女らしさで比較してほめるのではないかと思うのです。

 

そして、ジェシーくんに対しては、その「愛くるしい」をしている状態でなくともよいと判断しているからこそ、「与えられている」ことに対してストレートに言及するのではないかと考えるのです。

 

もちろん、すべて私があの一語から感じたことでしかないし、大我さんに訊けることがあったとしても訊ききれることではないでしょう。

 「愛くるしい」をすることが、髙地くんの言うように「自分に素直」な結果出てくるものであれば、私はただ狂おしいほど愛おしい存在だなあ、と思いながら日々を過ごしたいなあ、と思うばかりです。

 

あとがき

 

ここまで6,300字強!お付き合いいただいてありがとうございました。

この記事を書こうと思ったのは、「愛狂います。」(アイクルと読みます。すでに解散)というバンドの過去のインタビューで、

 

ぼくらのバンド名は「愛くるしい」をしますって意味なんですけど、「愛くるしい」って愛おしいの最上級だと思っていて。 

 

という発言をしていたのを思い出したのがきっかけでした。

では愛って何だろう?とか。

 

で、スト5に対して「最上級に愛おしい」と思われている、と思っている大我さんにきゅん、として衝動的に書きました。

 

ただ、比較していくと、それだけではない大我さんのことも心に浮かんできてしまって。それこそ『徒然草』の序段、

 

つれづれなるまゝに、日くらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。

この状態になりました。

 

大我さんのことをもっと慈しみたいし、スト5との関係性に着目していきたいし、何なら毎日もはや”考えない”レベルにまで持っていきたい。

「うやむや」自作PVのことで以前つぶやいたように、大我さんはものごとを意識的には考えないレベルまで考え込む人だと思うのです。そのレベルまで到達したい。

 

どこまで考えてもSixTONESの底知れなさにおののくばかりの私には、遠い到達目標だなと思いながら、きょうは寝ます。つい徹夜してました。おやすみなさい。よい夢を。