文学に向き合うときと、SixTONESを考えるときのはなし。
◯このブログにたどり着いた方へ
読んでいただきありがとうございます。
私のなかでぐるぐるしていることをだらだら書いているだけです。面白くはないです。
自分が自分のために書いてます。
◯本題
万人うけしないのは分かってて書いてるからいいや、と思うと同時にオタクとして正しくいきるのってむずかしいと思う今日この頃。
好きな作家っていますか。私は三島由紀夫が好きです。中学生のころに『禁色』に出会って打ちのめされ、大学生以降は『午後の曳航』と『近代能楽集』を繰り返し読んでます。
私は三島由紀夫のことは永遠に分析できないと思います。
あの文章は私にとってある種の信仰だから。
私の狭い世界中、どこを探してもあんなうつくしいリズムはなかった。あんなうつくしい景色はなかった。
子どもの、自分を防衛できないころに出会ったから尚更あの文章が私の一種宗教みたいなものになったのかもしれない。
あんなに鋼鉄のように鈍く光って、一太刀で急所にあたることば、しかもまるでそのことばとワルツを踊っているような高揚感。
いまだって三島の小説も戯曲も、ずっと私の根幹に、うつくしいものとしてある。
認識にとつて美は決して慰謝ではない。女であり、妻でもあるだらうが、慰謝ではない。しかしこの決して慰謝ではないところの美的なものと、認識との結婚からは何ものかが生れる。はかないあぶくみたいな、どうしやうもないものだが、何ものかが生れる。世間で芸術と呼んでゐるのはそれさ。
誰かを説き伏せることばですら、こんなにも流れるように、ひとつの音楽になる。自分のことばとして三島のような文章が筆から溢れてきたら良いのに、私は永遠にそこにたどり着けないのです。
おとなになってある程度の防衛術をもったから、SixTONESの6人を全肯定して崇め奉るような接し方はできなくなったのかもしれない、とふと思います。
私が大我さんを好きだというとき、私がジェシーくんを考えるとき、私がSixTONESを聴いたりパフォーマンスをみたりするとき、彼らと自分との距離をはかって、そこに横たわる河の深さを感じます。
理解を拒む大好きと、理解したい大好きが自我を持ってる感覚。
人が記録をするのは、人間自身がモータルなものだからだろう、と思う。
きょう好きだったアーティストが、来年には好きじゃなくなるかもしれない。いきなり明日、別のアーティストに比重を傾けるかもしれない。
だから人間は記録をつけるのでしょう。留まらないものを標本にするために。
私は私なりに、SixTONESが好きです。
安部公房と同じくらいには。高校の教科書で『棒』に出会って、文学部に行って、まだ足りない、もっと知りたいと大学院まで行かせた公房と同じくらい。
だから、公房に対しての愛しかたと同じ愛し方をするだろうと思います。
文学に惹かれるとき、そこには私自身の問題が立ち現れてくる。きっとSixTONESに惹かれる私は、私自身の問題を彼らに投影している。
彼らを好きになっていることにも、わずかな寂しさがあるのです。
でもきっと、彼らを好きになることで、完全な幸福を求めようとは思わない。
幸福って、何も感じないことなのよ。
幸福って、もっと鈍感なものよ。
…幸福な人は、自分以外のことなんか夢にも考えないで生きてゆくんですよ。(『夜の向日葵』三島由紀夫)
満たされない自分があるから、彼らのことを好きになれる。
きっとこういう向き合い方は、オタクとして正しくないとされるのだろうとも思います。
でも私は、文学に向き合うときと同じトーンで、彼らのことが好きだと思う。満たされない容れ物である自分を埋めていく。そのためにブログを書いています。
文学を読んでいくときのやり方で彼らのことを考えることが自分にとっての一縷、世界をつなぐ糸になっているのだと思うのです。