Pray through music

すとーんずにはまった元バンギャの雑記。

尊厳をめぐってーひとりのジャニオタとして考えること

死者はことばを持たない。だから、反論も肯定もできない。

 

死者はただ、土の中で眠っている。

死者がものを言わないのであれば、死者の尊厳は誰が守るのだろうか。云うまでもなく、生者である。

そして、死者の尊厳を守ることは、生者の尊厳を守ることと同義ではないかと、私は考えている。

 

私はジャニーさんを直接知っているわけではないから、今日報道されているようなことをほんとうにジャニーさんがしていたのか、知る由もない。ただ私がわかるのは、自分がジャニオタになったと自覚する前だって、ジャニーズのエンタメはずっと傍にあったということだ。

子どもの頃、『うたばん』で中居くんとゲストの掛け合いを観るのが毎週の楽しみだった。『学校へ行こう』で行われていたゲームを真似してクラスメイトと遊んだ。ファンクラブなるものがあることも知らなかった頃、KAT-TUNが歌番組に出ていると知れば必ずチャンネルを廻していた。

つまり、自覚的であるかどうかはともかく、ジャニーズはあまりにも自然に、生活のうちにあった。

 

また、私の場合、きれいな男の子たちに憧れがあったのだと思う。

高校を卒業する頃まで、私服でスカートを履いたことがほとんどなかった。お年玉で買ったスカートを「変な色」と鼻で笑われ、教師から褒められた作文を見せれば「字が汚くて読めない」と言われた子ども時代。ジャニーズは、ヴィジュアル系とともに、私にとっての慰謝だった。

素敵になりたいと願うと否定される。小さな世界の異物である私は、マスでは異端扱いされていたヴィジュアル系と、マスで受け入れられつつ否定もされるジャニーズに慰められていたのだと思う。

 

その一方であるジャニーズをつくりあげたのは、紛れもなくジャニーさんだ。それだけが、私の知りうる"事実"だ。

だから私はジャニーさんを悼んでいる。私の灰色の世界に色を与えたジャニーさんに感謝している。ジャニーさんを悼む私の尊厳も、報道によって削り取られているように感じる。

 

過熱するバッシングは、ジュリーさんやジャニーズのタレントたちを疲弊させている。光一くんのブログ、河合くんの涙、降板させられるCM、矢面に立ち続ける彼らの心労いかばかりか。

被害にあったと主張する人たちの尊厳も守られるべきだろう。ただ、事務所の社員やタレントたちの尊厳は守られなくて良いのだろうか。

 

もちろん実際にジャニーさんが今日報道されているようなことをしていたのであれば、それは裁かれるべきである。ただし、それは現在のメディアを使った私刑のような形ではなく、司法によって行われるべきだと考える。

日本は法治国家である。法がすべてを解決するわけではないが、この泥沼のような争いに一定の落としどころをつけるのが法である。法によって出た判決に異論があれば、控訴することだってできる。

 

ジャニーさんによって尊厳を毀損されたと思うのであれば、被害者を名乗る人々はなおさら司法に訴えでるべきだと、私は考える。

 

ただ私は、ジャニーさんがつくりあげたエンターテイメントをなんの気兼ねなく尊びたい、それだけを冀っている。

怪物をめぐる一思考——SixTONES『ABARERO』MVについて

 

衝動性とは何か—善悪をめぐって

SixTONESオフィシャルWebサイトにおいて、『ABARERO』は下記のように紹介されている。

9枚目のシングル「ABARERO」(読み:アバレロ)は、その名の通り、誰にも止められない衝動・溢れ出す本能を解き放つ、型破りな"超攻撃型"HIPHOPチューン。

www.sixtones.jp

衝動的であること、本能的であることは、社会で生きる上で必ずしも良いこととして扱われない。むしろ「考えなし」「人の迷惑を顧みない」などと謗られるのが常だろう。

一般的な価値観を踏まえれば、衝動や本能に身を委ねんことは忌避すべき行為である。善悪二元論で捉えた際には、“悪”と規定されるだろう。しかしそもそも善悪とは何か?

 

善と悪について考えるとき、私は『ジキルとハイド』を念頭に置く。スティーブンソンの手によるこの小説は、「正真正銘の紳士」たるジキル博士が薬を用いて「人の姿をした鬼畜」であるハイド氏に変身し悪を行う物語だ。

しかし、『ジキルとハイド』を手に取ったことのある方なら同じ疑問を持ったことがあると思うのだが、果たしてジキル博士は本当に「正真正銘の紳士」と評されて良い人物だろうか? テクストは嘘を吐かないが、登場人物はいくらでも嘘を吐く。あるいは登場人物もテクストも、言及しないということを選択することができる。

物語は、ジキル博士の手紙によってすべての種明かしがなされるが、その種明かしも信用してよいものかどうか。

ジキル博士は医学・民法学・法学を修めた博覧強記の人物であり、王立協会員をはじめとする輝かしい称号を手にしている。対してハイド氏は誰にもその存在を知られていなかった人物だ。両者は同一人物であり、ハイド氏はジキル博士がそれまでの半生で抑圧してきた欲望の露出であるから当然のことではあるのだが。

 

尊敬される人間になりたい。それも、賢く善良な人たちからの尊敬を集めたい。そう思うこと自体は、ジキル博士が医学や法学を追究するための原動力として非常に役に立つものであっただろう。だがしかしこの願いからして、ジキル博士の冷酷さがにじみ出てしまっている。「賢く善良な人に尊敬されたい」のだ。善良であっても賢くない人間、賢くても善良ではない人間、そして賢さも善良さもない人間。そうした人間たちは、ジキル博士の眼中にはないのである。

ジキル博士は自分が選好した人間以外には見向きもしない差別主義者であると言うこともできてしまう。本人は自分の性質についてこのような評価を下している。

私には、頭を高く保っていたい、人のまえでは重々しい威厳を見せていたいという尊大な欲求があり、そういう欲求と自らの性格との折り合いをつけるというのは簡単なことではない。

(※1『ジキルとハイド』スティーブンソン、訳:田口俊樹、新潮社文庫、2015年初版)

果たして自分の欲求に従順に“悪”を為さんとするハイド氏と何が違うだろうか?

学問を修めることそれ自体には、強い抑制力が働くだろう。研究は、一朝一夕に結果が出るようなものではない。地道な繰り返しによって道が拓けてくる。というか、地道な繰り返しによってしか、拓けるものはない。

世の中に“善”とされるものはつまり、抑圧されたものの成れの果てでしかなく、善がはびこる世界とはだれもかれもが我慢を強いられている世界である。見方によっては、“悪”のはびこる世界の方がずっと自由ではないか。自己の快を徹底して求めることが許されている。

しかし“悪”のはびこる世界であったら、常に簒奪が行われる状態に身をおかなくてはならない。“善”と“悪”の二項であったら、私はまだ少しの差で善性の支配する世界に身を置いた方がよいと判断する。

 

ところが、だ。このMVでは明らかに”善”の世界から逃げ出し、”悪”の世界へと移行するMonstersを主役に据えている。

我慢ならない抑圧への抵抗。”善”と”悪”との反転が起こっている。

 

抑圧するものは何か—壁をめぐって

それでは、抑圧は具体的にどのような形で示されるのだろうか? 一つは、大我さんの閉じ込められているあのケースだろう。ケース様のものということは、言うまでもなく、内に在る者から見れば壁に囲まれるということを意味している。

石川淳安部公房芥川賞受賞作『壁』(月曜書房、1951年、本ブログでは新潮文庫より引用)に寄せた「序」において、このように述べる。

長いあいだ、壁は人間の運動にとってずいぶん不便な、不届きなものでした。というのは、位置の固定、すなわち精神の死であったからです。

〈引用者註:壁〉はあくまでも人間の運動を妨害するために、圧倒的に逆襲してくる。部屋の中にいてさえも、壁は風雨をふせぐという著実な役目をわすれて、積乱雲よりもうっとうしく、時計の針も狂うほどに、人間を圧しつぶしにかかってくる。壁の復讐、地上至るところ地下室です。
壁は、建物の中に居るものを守るための装置として機能するとともに、中にいるものを圧迫する。

人間の尊厳にかかわるもののうち一つは、他者に支配されないということである。石川淳の指摘はまさに尊厳についての指摘と言える。つまり、冒頭の大我さんは尊厳を奪われているのである。

それでは尊厳を奪う他者とは何か? それは他ならぬ自己だろう。エーリッヒ・フロムはこのような記述を残している。

「良心」とは、自分自身によって、人間のなかにひきいれられた奴隷監督者にほかならない。良心は、人間が自分のものと信ずる願望や目的にしたがって行為するようにかりたてるが、その願望や目的は、じつは外部の社会的欲求の内在化したものである。良心は、峻厳残酷にかれをかりたて、快楽や幸福を禁じ、かれの全生涯をなにか神秘的な罪業にたいする償いとする。

( エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』東京創元社、1951年、日高六郎訳)

ここで注目したいのは、「ひきいれられた」という表現である。「ひきいれられ」るのであるから、良心とは他者と接するうちに(意識的にであれ無意識であれ)自分の内部に侵入してくるものに他ならない。さらに言えば、その侵入してくるものこそが、社会生活においては”善いもの”とされている。

それが「ひきいれられ」なければ、人間は呵責を感じることもなく、自然状態に身を置けるのではないか。前項のおわりに、我慢ならない抑圧への抵抗と書いた。社会において“善”とされるものは必ずしも個人にとっての“善”であるとは言い切れない。自己を抑圧するものを人は“善”と呼んでいる。個人にとっても“善”であるのであれば、人は呵責の念を感じずにいられるだろう。

 

押し付けられたがために苦しめられる。だからこそジェシーくんは「俺はずっと逃げてるモンスター」(『Songs Magazine vol.10』リットーミュージック、2023年4月)なのだろうし、大我さんはジェシーくんの”SHOUT”に呼応する形でガラスを割るのだろう。

手で触れるか触れないかのうちにあっけなく割れた壁に、大我さん=“悪”は何を思っただろうか。

世の中に“善”としてはびこるものの脆弱さ。

状況が変われば善悪はいとも簡単に反転する。そうした容易さに、なにがしかの失望感を覚えたかもしれない。自分が信じていた社会の規範、自分を押さえつけていたルールは自己のなかにひきいれていた他者に植え付けられたものだと了解したのかもしれない。

いずれにせよ、自分の立っている足場への信頼のようなものは失墜しただろう。

 

それではなにを信じるべきか? 自分を取り巻いていたものは信用に足りない。内なる声とでもいうべき衝動性。それのみが自分を貫いている。頼るべきはただ唯一、それ以外にない。己を支えているのは、社会に要請されるような正しさではない。

ガラスケースの置かれている、地下らしき空間を、ある一人の体内のメタファーだと捉えてみる。すると、地下空間を支えているのは鉄骨=骨と外壁=皮膚であると捉えることができる。また、ガラスケースにつながれているパイプは血管ではないかと推測できる。

すれば大我さんのいる空間は心臓だろう。人間は、(実際に考える器官は脳であるにもかかわらず)「心が熱くなる」「心に秘める」などと言う。

大我さんは文字通り、「秘められた攻撃性」を表す存在として、あのガラスケース=心臓の裡に座っているのである。

なぜ壁が透明である必要があるのかは、これで明らかになったように思う。つまり、あの空間を一人の人間として捉えたとき、他者からは欲望が見えずとも、己には己自身の欲望がよく見えているからだ。

『ABARERO』はおそらく、二重人格のキャラクターを描いている。それは『ジキルとハイド』のような描かれ方である。ガラスケースは、ハイド氏を隠しておくべき心という場所を示している。

ジキル博士を他人が見たときにはハイド氏の姿は見えようもないが、ジキル博士本人には心の深いところに沈めておくべきハイド氏の姿がよく見えている。

ハイド氏はうろつき、悪を為すときを望んている。

 

年齢をめぐって―抑圧はいつ起こるか

ところで衣裳とライトに着目したとき、面白いことに気づくと思う。慎太郎を除く5人は赤を基調とした衣裳を纏っている。これはMonstersを象徴しているだろう。また、彼らはソロパートにおいて青ないし赤のライトに照らされている。私は、青を赤に対立する要素として捉えた。つまりMonstersを討伐、まではいかなくても押さえつけるための正義を象徴する色と考える。

しかし慎太郎くんのみ様相が異なる。彼を照らすライトは黄みを帯びているし、衣裳もその黄みを弾くような光沢のある上着が印象的だ。

どうして慎太郎くんのみ、このような状況になっているのか?

ゲーテ『色彩論』を引くと、このようなことが書いてある。

これは光に最も近い色彩である。〈中略〉黄色は純粋な状態においてはつねに明るいという本性をそなえ、明朗快活で優しく刺激する性質を有している。

黄色は純粋かつ明るい状態においては快適で喜ばしく、また強烈なときは明朗かつ高貴なところを有しているが、これに反してこの色彩がきたなくされたり、ある程度までマイナス側に引き込まれる場合にはきわめて敏感であり、ひじょうに不快な作用を及ぼす。

ゲーテ「色彩論」『ゲーテ全集14 新装普及版』所収、1980年初版、2003年新装普及版)


光。無垢とも考えられうるもの。あるいは私たちは、黄色になにか子どもらしいイメージを抱く。子どもは周囲の環境に応じて自らの常識を形成していく。何者にも染まっていない少年が赤=Monsterの世界と青=抑圧者の世界の相剋を見ていることを、あのライトは示しているのではないか。

 

途中、慎太郎くんが青い光を指先で操るシーンがある。

あれこそ子どもの純粋さの最たるものだろう。青はおそらくこのMVにおいて、道徳を表す色である。

自我を持ち始めたくらいの子どもは、それが善だとか悪だとかを考えずに、自分の周囲にあるものを手あたり次第に弄ぶ。大人たちがそれを見咎めるからこそ、悪いことであると学ぶ。

それでは周囲がそれを見咎めなかった場合にはどうなるだろう? 秩序の側から"悪"と呼ばれるものに成り果てるだろう。純粋に育ったが故の"悪"。

いわゆるピュアであるということは、本当に推奨されるべきものだろうか?

 

ものを知らないということは、その人物が様々な情報に染められていないということを示す。染められていないことを良しとするのであれば、そもそも教育など必要ない。

私たちは実生活において、子どもの持っている純粋性を否定する。純粋さを肯定するのであれば、何も教えずにその子どもの恣にさせておけば良いのだ。

常識もない。知識もない。落伍者と認識されるようなもの。それがピュアであることを徹底した場合の行く末だ。

或いは太宰治は、こう述べている。

人が「純真」と銘打っているものの姿を見ると、たいてい演技だ。演技でなければ、阿呆である。家の娘は四歳であるが、ことしの八月に生れた赤子の頭をコツンと殴ったりしている。こんな「純真」のどこが尊いのか。感覚だけの人間は、悪鬼に似ている。どうしても倫理の訓練は必要である。

太宰治「純真」『もの思う葦』新潮文庫、初版1980年)

 

慎太郎くんの位置は、赤にも青にもなり得る子どもであると捉えるのが妥当だろう。

そして、青=道徳の側による教育の機会を得なかったから赤の側に属するようになったと、私は理解する。子どもが社会に参入するためには、大人の手によって強制的に矯められることが要請されているのである。

矯められないままに育つ子ども。そういえば、ハイド氏はこのように記述されている。

私の邪悪な側面は、明確な力を与えられてもなお、お役御免となった私の善良な側面より弱く、未発達なものだった。というのも、それまでの私の人生は九割方、努力、廉潔、抑制というものに支配されており、邪悪さのほうは実践され、利用され尽くす機会がずっと少なかったからだ。エドワード・ハイドがヘンリー・ジキルよりずっと小柄で痩せていて若かったのは、そのせいだろう。加えて、ジキルの顔には善が光り輝いていたのに対して、ハイドの顔には悪が露骨にあからさまに塗りたくられていた。

鏡に映った醜い虚像を見て、私が覚えたのは嫌悪感ではなかった。むしろ小躍りして受け容れたくなるような喜びだった。これもまた私なのだ。その私はいかにも自然で、人間的に思えた。私の眼にはより溌溂とした精神の像として映った。(※1)

ジキル博士からすれば、「悪が露骨にあからさまに塗りたくられて」いるハイド氏はしかし、「溌溂とした精神」を持った、「人間的」で「未発達」な存在である。また、対する自分のことは「努力、廉潔、抑制」にと支配された存在であると表している。ジキル博士はこの時点では、自分の分身であり、自分が生み出した子どもとも言えるハイド氏を矯正するつもりなど毛頭ない。解放してやるために生み出したのだから、自由にさせるのが道理だ。

生命を与えられた“悪”は伸び伸びと己の本領を楽しむ。生みの親であるジキル博士を驚嘆させるほどの成長を見せる。

実のところ、私が生み出すことの出来る分身は、その頃にはよく体を動かし、栄養も充分にとるようになっており、身長も伸びたように思われ血がより豊かに全身をめぐっているのが意識され、私としてもひとつの危険性を疑わないわけにはいかなかった——この状態がさらに続くと、私の人格は永久にバランスを欠くことになるのではないか。自在に変身する力が失われ、エドワード・ハイドに体を乗っ取られてしまうのではないか。(※1)

成長したハイド氏を目の当たりにしたジキル博士は、制御できなくなりつつあることに恐れをなす。そうして自分ごとハイド氏を葬り去ろうとする。自己同一性の保持ができなくなるのであれば、自らの手で壊してしまうしかない。

ジキル博士は随分身勝手ではないか。様々なしがらみに雁字搦めになっているからこその身勝手さなのだろうか。自ら生み出した子どもが自分の制御できないものになりつつあるとき、大人は押さえつけにかかる。

慎太郎くんは、子どものような眼を通して、そうした大人どもの欺瞞を見ているのではないか。“善”も“悪”もないような子どもの眼で。

 

正しさとは何か?—善悪をめぐって②

繰り返しになるが、ジェシーくんはMVで運転するシーンを指して、「逃げてる」と述べた。

なぜ逃避の必要があるのだろうか? 相手が自分にとって正しいのであれば、逃げる必然性など一切ない。しかし明らかにジェシーくんは、"正しい"ものから離れていこうとしている。

 

正しさを規定するものとは何か。有象無象の声である。世論だとか風潮だとか言い換えても良いかもしれない。もちろん社会生活を営むうえでは一定以上の合意が必須であり、手放しで否定すべきものではない。しかしながら、現代の社会では正しさに重きが置かれ過ぎてはいないだろうか。

國分功一郎はこのように指摘している。

現代社会はあらゆるものを目的に還元し、目的からはみ出るものを認めないようとしない社会になりつつあるのではないか

不要不急と名指されたものを排除するのを厭わない。必要を超え出るもの、目的をはみ出るものを許さない。あらゆるものを何かのために行い、何かのためでない行為を認めない。あらゆる行為はその目的と一致していて、そこからずれることがあってはならない。

國分功一郎『目的への抵抗 シリーズ哲学講話』新潮社、2023年)

國分は、目的をはみ出すものが排除される世界への警鐘を鳴らしている。目的をはみ出すものとは何か。一般に“あそび”や“ゆとり”といったことばで表現されるものだ。

ジキル博士の告白に戻ろう。

私は途方もない二重人格者ではあったが、偽善者では決してなかった。二人の私はどちらも真面目そのものだった。抑制が利かず、汚辱にまみれる私も、白日のもと、知識の蓄積や、人の悲しみや苦悩の救済に勤しむ私も、どちらも同じ私だった。

〈引用者註:ジキル博士は〉人間が抱えるふたつの人格を分離して考えるのが愉しみだった。ふたつの人格が別々の個体に収められていたら、とよく自問するものだ。その人間の人生は耐えがたき悩みのすべてと無縁のものとなるのではないか。(※1)

先にみたように、ジキル博士は人生のほとんどにおいて、制禦力を以て自らの地位を築いてきた人物である。その人物にとって、“悪”を志向する自分は排除すべきものである。

社会的な価値の高い人々から尊敬されない自分は不要の長物である。「頭を高く保っていたい、人のまえでは重々しい威厳を見せていたい」という目的に合致しない人格は忌むべきものであり、気付かれないように“悪”を遂行するか、さもなければ葬り去った方が良い。ジキル博士の考える”善”とは抑圧の別名に過ぎず、無理やりに自分を矯正してしまうものに他ならない。

 

結局のところ、ジキル博士は“悪”の象徴たるハイド氏と“善”を司る自分とを分離することに失敗して自死を選んでいる。だから、その企み自体がジキル博士の手に負えるものではなかったのだ。なぜ失敗したのか? やや迂遠に感じるかもしれないが、意志概念について考える必要があるだろう。これに関しても、國分功一郎の指摘を参照したい。

ハイデッガーによれば、意志するとは、「考えまいとすること」、「忘れようとすること」、そして「憎むこと」である。ハイデッガーがそのように述べるのは、意志を切断と捉えているからです。

過去を眺めることなく、未来だけを見つめて、「未来を自分の手で作るぞ」というのが意志だ、と。それは過去を自分から切り離そうとすることです。ハイデッガーによれば、そうしている限り、人はものを考えることから最も遠いところにいることになる。

昔のこだわりを捨て、痛みもコントロールでき、悲しくなったり寂しくなったりしても自分ひとりでなんとかできる。都合の悪い過去は全部切断することができる。そのいっぽうで「自分の人生はこういうふうにキャリアデザイン」とつねに前向きで未来志向的な物語化を行う。

國分功一郎・熊谷普一郎『〈責任〉の生成—中動態と当事者研究新曜社、2020年)

ここで指摘されていることは、ジキル博士の行為と非常に似てはいやしないだろうか? 

「人間が抱えるふたつの人格を分離」させることでそれぞれの人格にとって都合の悪い部分からは免責され、「耐えがたき悩みのすべてと無縁のもの」になろうとしている。

「都合の悪い過去は全部切断」するというのも、まさにジキル博士が実践しようとしていることである。ジキル博士は、ハイド氏に変身している際にした犯行もジキル博士に戻れば証拠隠滅できるという、「特異な免責」を行使する。己の罪過を引き受けるつもりのない人物である。

一般的な価値観からいって、当然これは正しくない人間の振る舞いだろう。しかしジキル博士あるいはハイド氏が亡くなりすべてが白日のもとに晒されるまで、ジキル博士は「正しい」人間であったのだ。

ジェシーくんが「正しく」ない自分を切断しようとしてくるものからの逃避を企図するのは、当然の帰結であると言えるだろう。

 

自由をめぐって

ここまで二重人格ものの古典である『ジキルとハイド』を重要な参照点として論を進めてきた。今一度、オフィシャルサイトにおける『ABARERO』の紹介を確認しておこう。

9枚目のシングル「ABARERO」(読み:アバレロ)は、その名の通り、誰にも止められない衝動・溢れ出す本能を解き放つ、型破りな"超攻撃型"HIPHOPチューン。

さらに、『音楽と人』2023年5月号(発行:株式会社音楽と人のそれぞれのコメントを確認する。

ジェシー】バラードもポップな曲もあっていいですよ。でも、こっちが本流って勘違いされる、ギリギリのとこまで来てた。ドラマや映画、声優、バラエティ、いろんなことをやるのはいいんです。アイドルだし、むしろそれは誇り。だけど音楽でやってることがブレたら、それすら崩れちゃうから。〈中略〉ずっとこういうのをやりたかったし、こっちがSixTONESの本質なんだってことを伝えたかった。

【京本】SixTONESはこういう楽曲を打ち出さなきゃいけないって、ずっと思ってました。とくに最近、ポップやバラードの楽曲が目立ってたから、今こういうものを出さないとまずいなって。〈中略〉もっとわかりやすい、ポップなもののほうが広がるって考え方はわかるんですけど、今回ばかりは、僕らが貫きたいと思っている気持ちや熱量みたいなものを、どうしても出したかった。

【北斗】CDデビューを機に、あれもこれもやってみたいっていろいろ挑戦してきたがゆえに、僕らはどんなイメージを持たれてるんだろうっていう不安も少しあったんです。どれがこのグループの芯なんだ? って、自分たちでも少し曖昧になりかけてるところがあった気がして。だからドームを前に改めて自己紹介をしましょうって感じでした

【髙地】〈ABARERO〉は原点回帰みたいなところがあるんです。Jr.時代ってオラオラした楽曲が多かったんですね。でもCDデビューさせてもらってからは、いろんな楽曲をやるようになっていって。やりたいことはたくさんあるけど、今みたいに広げていくだけでいいのかな? って6人でもなって、レーベルの人に『次のシングルはもっと攻めたい』っていう提案をさせてもらったんです。

【慎太郎】今回はJr.の頃からやってきた自分たちのベースとなる音楽をブラッシュアップして、進化させたものが入ってますね。唄い方はこうしよう、音の強さはこっちがいいんじゃないか、もっと雑さがほしい、といった要素を詰め込みました。自分たちの意見が相当入ってるし、SixTONESの世界観をかなり出せてると思います

【樹】〈引用者註:『ABARERO』のラップ詞は〉マジで、自分で書きたいって言おうかと思ったけど、その気持ちで唄えばいいかなって。でも、このリリックは全部気持ちいいですよ。かなりギリギリのラインを攻めてるし

上記を読んで分かる通り、彼らの思考はジキル博士とは逆をいっている。ジキル博士は世間に善いものとして認められる自分以外を排除せんとしていたが、SixTONESはむしろその逆に向かってこの『ABARERO』を完成させている。

ここには当然、世の中に対する問いが含まれている。社会に迎合しすぎることが果たして正しいのか?  という問いだ。

すると、再三の言及になるが、ジェシーくんの「俺はずっと逃げてるモンスター」という証言はかなりの重みを帯びてくる。

ジェシーくんが逃げていたのは、「正しい」ことを押し付けてくる世間からであり、置かれた状況から脱出するための道を探すことによってしか見えてこないものがあることを表しているのではないか。「暴れろ」「騒げ」「SHOUT(叫べ)」と煽り立てることもまた、「こっちが本流」であると勘違いされつつある現状への反抗だろう。

 

國分功一郎はこうも述べている。

スピノザによれば、自由は必然性と対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。〈中略〉自由と対立するのは、必然性ではなくて強制である。強制されているとは、一定の様式において存在し、作用するように他から決定されていることを言う。それはつまり、変状が自らの本質によってはほとんど説明されえない状態、行為の表現が外部の原因に占められてしまっている状態である。

國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』医学書院、2017年)

ここに書き記されている「自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由である」という指摘と、ジェシーくんの「ずっとこういうのをやりたかったし、こっちがSixTONESの本質なんだ」、大我さんの「今回ばかりは、僕らが貫きたいと思っている気持ちや熱量みたいなものを、どうしても出したかった」は響きあって聞こえないだろうか?

SixTONESはハイド氏のように描かれながらも、ジキル博士に代表される“善”、有り体な

正しさに飲み込まれず、超克することによって新しい地平を見せている。

 

だからSixTONESを追いかけることは面白い。現状を見つめ、それで良しとせず、自分たちの核を発信し続けること。時流は読みつつも、流されるままに行くのではなく、反骨心を以て世間に問うこと。己の頭を使って思考すること。すべてが統合体となって、エンターテイメントとしての魅力が増すのだと思う。

 

明日5/12にMV解禁になる『こっから』も楽しみだ。

世間に阿ってもそれなりの成功は得られるだろう。けれどそれを良しとしない怪物たちの挑戦が、世界をより面白くしてくれる。

語りの問題:『ふたり』私論

※引用部について:特にタイトルの記載がないものは、SixTONES『ふたり』(Sony Music、2022)からの引用。

 

 

「わたし」はどこにいるのか:語り手としての「わたし」

物語には、語り手が必要とされている。そして、語り手には語る対象との距離がなくてはならない。

『ふたり』の場合は、「わたし」が語り手であり、また語られる対象でもある。というと、同一人物であるのに距離があるわけがないだろうと訝しむ人もいるだろう。

語る「わたし」と語られる「わたし」には、絶対的に距離がある。時間的な距離である。

「あなた」について語る「わたし」に移入して、リスナーはこの曲を聴く。

「朝焼け」の時間、ある程度ビルの林立する都市の一部屋で、「隣で眠るあなた」を眺めているのが語られる「わたし」である。語る「わたし」はその時に動いていたものとして、「うるさいほどに鳴り響く秒針」を挙げる。「眠るあなた」=静まっているあなたとの対比を印象付ける。「わたし」は普段なら気にも留めないような事物が気になるほどしんとした空間に佇んでいる。

その「あなた」との思い出は、過去に遡る形で思い出されていく。あるいは抽象から具体へと絞り込まれていく。

孤独を感じたも 未来に怯えた

いつも私だけを照らしてくれた

止まない雨の中 見えない星の下

ずっとわたしを信じてくれたね

手を繋ぐ帰り道

何気ない会話さえ

幸せだと思えるのは あなただから

※下線は引用者によるもの、以下同

朝焼けで始まった物語は、だんだん夜に、夕方に向かって巻き戻されていく。近過去から遠い過去、あるいは抽象から具体へと向かうことで、相手の愛情を実感に変換しようとしている。その愛情の最たるものは、「向き合って 泣き合って/抱き合って わたしの名を/何回も何回も 呼んでくれた」という事実だろう。ふたりの間に何がしかの波乱が生じていて、それを乗り越えられたということをこの一連で端的に表現している。しかし、語る「わたし」はそれで良し、ハッピーエンドだ、とはしたがらない。

「向き合って 泣き合って/抱き合って あなたの名を/何回も何回も 呼んでもいいかな?」と問い掛けたがる。つまり、この先にもいずれ波乱があることを予感している。

極めてポジティブにとるなら、「わたし」と「あなた」が反転していることから、"今までにあなたが引き受けてくれた役割を、これからはわたしが引き受ける"という意志の表明である。しかし、一つの可能性として、(これは私の性格に起因するかもしれないが)「わたし」は「あなた」に対して、また不安を解消する役割を担わせようとしているのではないか、という疑いが浮上する。この先に不安を持ち得ない人物であれば、そもそもこの問いは生じようがないからだ。

過去を引き出してきて語る「わたし」は、未来に起こり得る諍いを予見し、「あなた」に問い掛けてみせる。そして、その不安を払拭せしめんとして、

儚い光がほら 消えないように

歩いていこう

ずっと ふたりのまま

と語りを閉じる。

前途に希望を抱いているのであれば、果たしてここに「儚い光」という表現を配置するだろうか。

辞書を引くまでもなく、儚いとは"虚しく消えていくさま/頼りなく弱弱しいさま"を表す。「あなた」が「わたしの名を何回も何回も呼んで」みせても、「わたし」は不安の芽を見つけ出してしまう。

 

少し先の未来では

さて、「儚い光」はどうなっただろうか?

MVは歌詞より少し未来の情景を映し出しているものだと仮定できるだろう。「わたし」を女性と仮定するのであれば、既に「わたし」は去ってしまったあとのようだ。「あなた」たちは銘々、「わたし」との思い出をなぞれるような場所に佇んでいる。ふとした瞬間に「わたし」の気配じみたものが現れる。言うまでもなく、過去に存在していた「わたし」たちだ。

國分功一郎氏は、記憶について『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫、2021)でこう語る。

トラウマとは、自分や世界がこうなって欲しい、こうなるだろうという予測を、大きく侵害する想定外の出来事の知覚や記憶のことである。

記憶はそもそもすべて痛む。それはサリエンシー〈引用者註:精神に興奮状態をもたらす新たな刺激〉との接触の経験であり、多かれ少なかれ、トラウマ的だからである。

「あなた」は「わたし」のことを思い出すとき、引っ搔いてしまったようなチリチリとした痛みも同時に再生している。

MVにおける語り手は「あなた」である。なぜなら、語り手と語る対象には絶対的に距離が必要であり、過去に存在した「わたし」とMV上の現在に存在する「あなた」には時間的・空間的距離が成立しているからだ。

 

MVでは「あなた」が現在において過去の恋人のことを語っているとしよう。すると、MVにおいてこの歌詞は全編において「わたし」から「あなた」に向かって放たれた言葉が繋ぎ合わされたものだと推測することができる。断片的に再生される「わたし」にまつわる思い出たち。それらを繋いでいっている。

 

ところで人間は、事象に対して一定のストーリーを付与することを好むらしい。自分にとって何か不合理なことが起こったときにも、ストーリーを作りあげることで一定の説得力を持たせることが可能になり、それによって自分自身を納得させることができる。

だから、MVにおける「あなた」は「わたし」の姿や言葉を繰り返し思い起こし、記憶にある重要な場所に己の身を寄せてみることで、少しずつストーリーを組み上げて、別れを昇華する準備を整えていく。その準備には長い時間がかかる。雲が流れて、空の色が変わって、ドライフラワーが飾られるほどの長い時間が。言葉としては語られないが、明らかに映像では膨大な時間が流れ続けている。

"あのときの彼女の行為にはこうした意図があったのではないか””あの発言をしたときに彼女は何を見ていたのだろうか"そうした思索のうちに一端の糸を見つけ、己の納得できる絵柄を織り上げていく。今に続く過去を編纂する。

そうしてやっと一綴りのストーリーが組みあがったその時、「あなた」たちは外へと踏み出す。

 

いったいどこに綻びが?

どうやらお互いに憎み合って破局したわけではなさそうだ。ではどこに綻びがあったのだろうか? 私は「わたし」の意志に綻びがあったのではないかと考える。すなわち、

儚い光がほら 消えないように

歩いていこう

ずっと ふたりのまま

という意志である。

好意的にとればもちろん、苦しみもふたりで乗り越えていく、という、ただそれだけである。しかし細かく考えると「わたし」はふたりでいる未来を絶対的に信じられるものとして捉えていない。

 

少し前にちらりと述べた、「儚い光」である。「消えないように」すなわち消えんとするイメージを「わたし」は抱いている。儚い光に対して、確かな強い光へと変わっていくイメージを持っていても差し支えないはずである。むしろ、未来に希望があるとすれば、そちらのイメージに転化するようが自然のように思う。

また、「ずっと ふたりのまま」とあるが、「まま」は現状を維持することを示している。ここに他者が参入してくることを、「わたし」は許さない。二者間の閉じた世界に「あなた」が身を置いてくれること、置き続けてくれることを望む。一種の理想郷である。

しかしながら、時間は二者の閉じた世界が構築されることを許さない。他者というのは何も人間に限らず、世界に存在する事物、MVに出てくるものであれば花や洋服、映画や鏡に至るまで、すべてが移ろっていく。花は咲きいずれ枯れるときを待っているし、洋服は着るごとに風合いが変わっていく。映画はクライマックスを迎える、鏡は割れる。「ずっと ふたりのまま」ではいられないのだ。

 

逆説的に言えば、"ずっとそのままであることはない"ことを受け入れることができてこそ、「ずっと ふたりのまま」という願いが叶う余地はある。

「わたし」はこうした事実が受け入れがたく、ふたりで過ごした場所から立ち去って行ったのではないか。あくまで推測でしかないがしかし、MV中の「わたし」が過去の姿でしかないこと、「あなた」が過去の象徴たる場に留まっていることから、あながち間違った解釈ではないのではないかと思う。

移ろうことを拒むがゆえにそこから立ち去らざるを得なかった「わたし」をどうにか理解しようとして、「あなた」はひとりひたすらにそこに留まる。

因果関係とは直進する時間のある地点の出来事を「原因」と見なし、その後のある地点に起きた出来事を「結果」と見なす思想によって成り立っている。因果関係は直進する時間にはじめから組み込まれているわけではなく、多くの場合「結果」の大きさに注目して、それ以前に起きた出来事を「原因」とするような、ある思想的な枠組みが作り出すものだ。

石原千秋『読者はどこにいるのか 読者論入門』河出文庫、2021〉

「わたし」との破局を重大な結果として、過去へと遡ってその影に原因を探す。単にもう戻らない時間を慈しんでいるだけかもしれない。しかしその慈しみは半ば自傷的な側面を持っている。わざわざ己の傷口を拡げてまで、記憶の内を探すのである。

 

意志か選択か

ここまで歌の状況とMVの状況を私なりに整理してきた。

歌における語り手である「わたし」は「ふたりで歩いていく」未来を選ぼうとして語りを閉じている。しかし実際、少し先の未来に「わたし」は存在していない。MVでは彼女は去ってしまっている。そしてMVにおける語り手である「あなた」は過去を参照しつづけている。

「あなた」は過去を参照しながら、ふたりの距離が離れ始めた地点を探してしまっている。「わたし」が別れの意志を固め始めたのはいつからだったのか? どちらに原因があったのか? そうしたことに思いを巡らせながら、思い出の場所に留まりつづける。

國分功一郎氏は『中動態の世界ー意志と責任の考古学』(医学書院、2018)でこのように指摘する。

「リンゴを食べる」という私の選択の開始地点をどこに見るのかは非常に難しいのであって、基本的にはそれを確定することは不可能である。

ところがそのリンゴが、実は食べてはいけない果物であったがゆえに、食べてしまったことの責任が問われねばならなくなったとしよう。責任を問うためには、この選択の開始地点を確定しなければならない。その確定のために呼び出されるのが意志という概念である。

「わたし」に責任を求めるのか、それとも別れの意志を抱かせた「あなた」自身を責める方向に行くのかは分からないが、"どうして"と開始地点を求めるからこそ、「あなた」は苦しんでしまう。

どちらに原因があるのかを追究することを止め、致し方ないことだったのだと諦めたとき、おそらく「あなた」は「わたし」の意志ではなく選択を受け入れたのではないだろうか。受け入れられたからこそ、儚い弱弱しい光の中ではなく、強い光に導かれるようにして、留まり続けた場所から離れていくことができる。

そして、「わたし」の不在を引き受けられたからこそ、他者から受け入れられる素地ができたのではないだろうか。「ふたり」だけで世界が閉じていたときには何とも頼りなかった光は、ここに至って確かな形を得ることができたのである。

 

「あなた」がすべて語っている?

それでも、『ふたり』にまつわる諸々のインタビューをめくってみると、この曲はあたたかい曲として語られている。

手許にある一冊から引いてみても、この通りだ。

切なさや苦しさを感じさせるこれまでのSixTONESのラブソングとはまた違って、『ふたり』は優しさや温もりを感じる楽曲なんですよね。今よりももっと前に進んでいけるような人生ソングに近いところもある楽曲なので、SixTONESとしてもちょっと新しい試みでもあるのかな、と。

〈「京本大我×Happiness」『TVガイドAlpha vol.60』東京ニュース通信社、2022年10月〉

注意しなくてはならないのは、この曲の歌詞が一人称の語りの形をとっていることだろう。視点は「わたし」に限定されている、つまり、「わたし」が知覚し考えていること以上のことを、リスナーは受け取ることができないということだ。

そして、語られている内容はかなり絞られている。「わたし」が「あなた」を眺めている時間に、「あなた」についての随想をしている、それだけに限られている。「あなた」についての情報は、いかに「わたし」にとって有益なことをしてくれたか、というだけなのだ。決して不都合な「あなた」は語られない。極めて恣意的につくりこみされている。

おそらく「あたたかみ」の根拠はこれで、私が違和感を持つのもここだ。歌詞の語りがすべてだとすれば、「あなた」は「わたし」に対して与える一方の存在である。

しかしそんなに完璧な存在としていられるだろうか? ひとつの疑いが頭を擡げてくる。「わたし」こそ恣意的につくりだされた存在ではないか?

そうすると、ここまで書いてきたことを覆さなくてはならない。歌詞もMVも、すべて「あなた」が語ってきたのではないか、という可能性にかけなくてはならない。

「わたし」からかけられた言葉と、「あなた」自身の乖離に苦しめられたからこそ、「あなた」から別れを告げた可能性もある。むしろその可能性が高いのではないかと思う。

自分はそんなに理想化されるべき存在ではないのに、「わたし」からは屈託なく称賛に似た言葉がかけられる。「わたし」が「あなた」のことを理想化すればするほど、イメージと自己の乖離は甚だしくなってくる。だからそれを遠ざけるためにも、「わたし」と距離を置かなければならない。そのための手段として「あなた」は別れを志向したのではないか。

熊谷晋一郎氏は『〈責任〉の生成ー中動態と当事者研究』(新曜社、2020、國分功一郎との共著)でこう指摘する。

「現在」の状況を安全なものと感じられるようになってはじめて、時間軸上に自分が今立っている原点が生じ、過去と未来ができあがる。安全な現在に両足を着地させながら過去を振り返ることができてはじめて、過去に飲み込まれず距離を置きながら思い出すことができるのです。距離がない対象は、言葉になりません。現在が安全ではない状況で、言い換えると時間軸上に原点がない状態で過去を不用意に思い返せば、過去形として思い出すのではなく、記憶が現在形となってフラッシュバック、タイムスリップが起きてしまう。

再三の繰り返しになるが、「あなた」が語っている地点は、「わたし」と別れてから時間的・空間的距離が空いた地点である。そして恐らく、思い出の場所に留まっているときには、熊谷氏の言葉を借りれば「タイムスリップ」が起きている状態なのではないか。

家や、ともに出掛けた海は、道を違えた"今"となっては必ずしも心の安全を保証しない。特に家は災害などから人を守る機能を持っているにも拘わらず、かえって彼らの心理的負担を引き起こす装置として働く。

ところで依存症の治療に、自分と似た経験を持つ他者と話すことによって症状の緩和をはかるというものがある。何か切り離したいものがあるのに不可能だからこそ、薬物なりアルコールなりの力を借りて一時的に記憶を切断する。そこから依存が始まる。別れの意志を持つことと似てはいまいか。

六者六様に「わたし」との別れに苦しみ、なにがしかの切っ掛けで偶然外に出た。そこで経験を分かち合うことにより、自分の過去を受け入れて進んでいけるようになった。

そう考えなくては、「ずっと ふたりのまま」と言いながら6人で歩もうとするラストシーンとの整合性がとれない。

6人で語らうあの橋こそ「あなた」たちにとっての安全基地であり、過去に囚われていた「あなた」から過去を引き受けた「あなた」に転換したことを象徴する原点なのである。

 

おわりに

私は『ふたり』の歌詞およびMVから、以上のように考えた。けれど、テクストが書かれたこと以上のことを語らない以上、読みの可能性はさまざまに開かれている。

少なくともひとつの読みとして、自分の頭にある情景を整理してきたことによって、他の読みの可能性にも目を向けられそうだ。これから公開される楽曲にもさまざまな読みの多層性がありそうだと感じているから、それを待望してこれからもSixTONESの音楽を楽しみたい。

 

 

 

ツイートとかのスタンスのはなし

いったん整理しておこうと思って。

私は私のためにツイートをしてます。ブログもふせったーも同様です。

 

それ以上でも以下でもない。

世界に公開されているから、ぜんぶ肯定しなきゃいけない、ってすごく窮屈だなあと思うのです。

もちろん人道に悖ることは呟きたくないなあ、とは思っています。

 

ただ、オタクアカウントだから、すべて肯定的なことを書くべきだとは思わない。

歌番組とかできょうパフォーマンスが微妙だなとか思ったら呟くし、有料コンテンツで疑問に思ったことも呟きます。

 ああここが好きだなあ尊敬できるなあと思ったこともぜんぶ書くし、なにか考えたら、長文でだーーーっとブログかふせったーを更新します。


ツイプロにも書いたとおり、SixTONES以外のことも雑多に書くし、それが自分を形作っているからぜんぶ捨てられません。

 

合わない方はフォローを推奨しません。こちらからは基本的にフォローをしたらフォロー解除はしないつもりです。

なので、相互フォローの方でもし自分のツイートを見られたくないな、と思ったらブロ解をお願いいたします。

 

こんな私でも良ければ声をかけていただければとても嬉しいです。

 

6月14日 軟骨(しお)

 

 

 

 

アイドルを浪費する

ある一派はこう主張する。バーナム博物館のさまざまな驚異はみな、一見いかにも機械的に説明できそうに見えるよう、計算づくの展示がなされているのだ、と。それに誘われて説明を企ててみると、一応納得は行くもののやはりいまひとつしっくり来ない説明しか思いつかない。かくしてこちらの好奇心と驚嘆の念はなおいっそう高まる、というわけである。

私たちのことを十分に理解していない人々は、バーナム博物館とは一種の逃避手段ではないか、と非難したりする。表面的な意味においては、まったくその通りである。バーナム博物館のなかに入るとき、私たちは、私たちを外の世界に結びつけているすべての絆から物理的に解放され、日光と死の領域をしばしば逃れることができるのだから。苦悩や悲しみからの息抜きを求めて私たちが博物館を訪れることも少なくない。だが、ひたすら外の生活のつらさを忘れるために私たちが博物館へ逃げ込むのだと決めつけるのは早計というものである。結局のところ私たちはもう子供ではないのだし、どこへ行こうと自らに課された重荷を背負いつづけているのだ。それに、そういった重荷を忘れることなど不可能だという事実はひとまず措くとしても、私たちが博物館を訪れるのは、悲しかったり不満があったりするときだけではないことも指摘しておきたい。むしろ安らいだ心、内なる充足とともに博物館にやって来ることの方がはるかに多いのである。

上記はミルハウザー『バーナム博物館』(白水社柴田元幸訳、2002年発行『バーナム博物館』所収)の引用。

アイドルにも似たところがあるように思う。

 

このブログ記事は、先日見たSixTONESへの言及や、ワイドショーでなされていた質問への、私の感じた違和を解消するために書く記事です。

 

 

アイドルは贋物か、半人前か?

先日流れてきたツイートに、こんな旨のことが書かれていた。SixTONESはある意味でアイドルの枠組みを拒絶していて、歌唱力やアーティスト性がずば抜けていると。

ある意味で、の比重がどの程度か量りかねるが、ここから透けて見えるのは、アイドルは一段低いものである、という意識だ。

 

日経エンタテインメント』2022年4月号において、大我さんはこう語る。

オーディション発のグループを見ると、クオリティーがすごいなと思うし、素直にリスペクトもします。〈中略〉でも、今からでも磨ける余地が絶対にあると思っていて。僕らには僕らのアイドル性やパフォーマンスがあるはずですから。

かなえたいことはたくさんありますけど(笑)、生意気言わせてもらうと、はやりとか業界の常識に振り回されず、自分を見失わずに仕事したい。

慎太郎君はこう言及する。

このコロナ禍で、エンタメの必要性や力というのを実感しました。人と人のつながりがあれば、朽ちるものではないんだなという自信がついた。その中でもジャニーズのエンタメ、ジャニーさんが俺らに与えたものって、本当にすごいんだなって。〈中略〉ジャニーズのこの独特の”家族感”は、他にはないものですし、誇りに思いますね。

彼らはジャニーズのアイドルであることを誇りに思いこそすれ、卑屈になることはない。

 

私がツイートで想起したのは、小説や漫画が市民権を得はじめたころの扱われ方である。それらが登場したころ、それらは女子どものための低俗な慰みとして扱われていた。すなわち、文化を持たない者のための愉しみであると。

何故それを低俗と見るか。日本の小説の誕生にも原因を求めても良いだろう。小説、Novelの概念は、鎖国が終わって日本に輸入されたもののひとつである。欧米列強の真似事のひとつである。

所詮想像にしか過ぎないことであるが、Novelを低く見る一つには未開の地への嫌悪、一つには劣等感があったのではないか。

開国によって、今までの国体が否定され、どこともつかない未開の地の文化が流入してくる。社会構造に変革を迫って来る。今までの生活を一新せよと脅される。そうしたことに対する忌避感。

小説を輸入する試みは、当時のエリートによって行われたはずだ。何か自分たちには理解できない、自分たちにとって未開の地の文化が、エリート階級には理解できるらしい。そうした現象への劣等感。

自分たちに嫌悪感と劣等感を抱かせるものを一段低く見られていた女・子どもの娯楽とすることで、溜飲を下げていたのではないか。

 

マッチョイズムな感性(と簡単に言いたくはない)と、ある種の捻れた感情。アイドル性とアーティスト性に戻ってみると、同じ構造が浮かび上がるような気もする。

アーティストは自分たちに相応しい・尊いものであるが、女・子どもに好まれる/女・子どもの飯事じみたアイドルはそうではないのであると。

 

こう捉えられる原因に、心当たりがないわけでもない。”アイドル”の寿命は、一般的に短いのである。例えば女性アイドルグループの場合、グループが存続していても、”卒業”制度がある。概ね30歳を迎える前に、多くは20代前半までに、グループから旅立っていく。組織の活性化という側面もあろうが、それよりも、女性アイドルは特に”若さ”に力点が置かれているということがあるだろう。

今でこそ女性の女性アイドルファンも多いが、やはり中心は男性ファンである。男性に向け発信するのであれば、若さがアピールされなければならない。実際はどうであれ、見かけ上は彼らよりも弱弱しい存在であらねばならない。

もしそうではないのであれば、何故彼女たちは制服やメイド服を模した衣装を着なくてはならないのか? あるいは明らかに運動に向いていないであろうひらひらしたスカートを穿かなくてはならないのか?

(もちろん彼女たち自身がそれを着たい、という側面もあろうが)

 

反転して、男性アイドル、特にジャニーズである。SMAPの登場まで、男性アイドルの寿命も決して長いとは言えなかった。しかし、今ではSexy ZoneKis-My-Ft2も10周年を超え、KAT-TUNもHey!Say!JUMPも15周年を超えた。決して短命とは言えなくなった。しかも女性アイドルグループのように、メンバーが入れ替わることはない。脱退はあるが卒業はない。誰かが脱退しても、欠員補充はない。

そして、彼らは庇護欲を掻き立てる一面を持っていないわけではないが、断じて私たちより下である、と捉えることはできないのだ。

 

女性アイドルの”卒業”制度。私の母世代には、就職はあくまで結婚するまでの腰掛けである、という感覚もあったと聞く。さらに時代を遡っていけば、女学校に通う学生は、卒業までに結婚相手が決まっている、早ければ卒業を待たずして籍を入れ退学する、なんて時代もあったという。

”アイドル”という言葉の場には、結婚し一人前になるまでの短いモラトリアムの期間である、という意識も働いているのである。そしてその”一人前”になる、には、一人の男性に見初められ、家庭の中に隠される、というところが付与されている。

(これ書いてて自分で気分悪くなってきた……笑)

 

何か、「アイドルを拒み、高いアーティスト性を有している」という言説には、彼らは女性ではないものの、SixTONESをトロフィーワイフのように扱いたいという願望も感じ取ってしまう。

すなわち、優れた俺が手に入れ、他者にその存在を自慢できるトロフィー。それは高級な”アーティスト”である必要があり、低俗な”アイドル”であってはいけないのである。

 

エンターテイメントとコスパ、贅沢

2月末に放映されたワイドショーで、気になる質問があった。

「映画やドラマは1.5倍速で見る。〇か×か」

私はこの質問を腹立たしく思うと同時に、これが世相を反映した質問であると、悲しくなりもした。大我さんの表情がわずかに歪んだのを、私はたぶん忘れない。

 

情報過多の社会で博打をうつ

ファスト映画をアップロードしていた人が逮捕されたのは記憶に新しい。

また、出版大手4社(小学館集英社講談社KADOKAWA)が海賊版サイトにサービス提供しているCDN事業者を提訴したのも、最近の大きなトピックスだ。

現代は情報過多社会であると考える人の割合は、2018年時点で8割を超えている。

www.nhk.or.jp

 その中でエンターテイメントを消費しようとすれば、お金も時間も膨大にかかる。でもそんな時間はないから映画やドラマは1.5倍速で見なくてはならないし、お金だって有限だから、無料で済ませてしまいたい。仕方のないことだ。

 

……それは本当か?

 

エンターテイメントのひとつの側面は、他者との会話のツールになりうるということ。そして現代はその他者でさえ、コストパフォーマンスが優れているかどうかによってジャッジされていることを含めて考えなくてはならない。

『「人それぞれ」がさみしい』(石田光規、ちくまプリマー新書、2022)に、下記の指摘がある。

(引用者註;現代は感情によるつながりで補強された世界である、として)感情に補強されたつながりは、それほど強いものにはなりません。〈中略〉あるつながりを手放さないためには、相手の感情を「よい」ままで維持しなければなりません。大事な相手とつながりつづけるためには、関係からマイナスの要素を徹底して排除する必要があるのです。

最近の大学生には、自らの友人関係を「コスパで選ぶ」と堂々と話す人もいます。つまり、コストに見合ったパフォーマンスを発揮できる人とのみ付き合うということです。とても合理的な考え方です。〈中略〉しかし、人間関係のコスパ化が進んだ社会では、自らもコストとして切り離されてしまうリスクを絶えず背負うこと、誰かがコストとして切り離されていることを忘れてほしくないものです。

ある程度のところまで、同感である。

目の前にいる人間に気に入らないことがあれば、シャットダウンすればいい。インターネット上にいる意見のあいそうな人物のみをフォローすれば良い。嫌な感情を引き起こす人は、指先ひとつでブロックできる。

もちろん、自分では気が合うと思っていた相手から、なにかの弾みにブロックされてしまうこともある。致し方ない。自分だってそうしてきたのだから、とは人間は思えない。

何で? 私が悪いことしちゃった? 何かしちゃったなら理由を聞きたい。けれどそれはもう叶わない。しんどい。

だから、エンターテイメントについて言及するときも、当たり障りのない言葉で評価するのが最適だ。当たり障りのない、1.5倍速で見られても問題ないエンターテイメントを作り出すのが、最もコストパフォーマンスがよいだろう。

 

だがしかし、それはエンターテイメントへの侮辱になってしまう。エンターテイメントは、現代的な意味でコストパフォーマンスが悪いものである。

作り手の側に立てば、構想を練って制作をし完成品が世に出るまで、それが受け入れられるかどうかわからない博打だ。受け取り手からすれば、それを手にするまでどんなものであるかわからないのだから、これも博打だ。

 

けれど、その博打の中で自分に合っているものを見つけられるからこそ愉しいのであって、賭けをせずに手に入れたものは存外すぐに飽きてしまうものだ。

 

贅沢=浪費≠消費

2021年3月のラジオにおいて、ジェシーくんは好きな曲の1つに小田和正さん『たしかなこと』をあげていた。

SixTONES・ジェシー、思い出の楽曲を明かす。「歌詞をかみしめて泣きたいとき」に聴くのは? | J-WAVE NEWS

歌詞をかみしめて泣きたいときは、小田和正さんの『たしかなこと』とか。声にやられます。

噛みしめる行為には、時間が必要である。

歌詞を咀嚼しないことには始まらない。表面上の情報だけを受けとるのではなく、背景にあるものを想像し、自分に引き付け、インストールする。

ゆったりとしたそれは非常に贅沢な時間だ。ファストとは相反する流れをつくらねば、噛みしめることは難しい。

 

少し前に流行した速読のメリット・デメリットにあい通じるものがある。

速読は確かに、多くの情報に触れることが可能になる。しかし反面、物事の理解力が落ちるというデメリットがある。

「読むのが遅い」はデメリットではない。読書体験を充実させる「遅読家」のためのおすすめ読書法 - STUDY HACKER|これからの学びを考える、勉強法のハッキングメディア

1987年にビクトリア大学のマイケル・マーソン教授が行った実験では、文章を読むスピードが遅い人ほどその内容を十分に理解していることが示唆されました。ゆっくりと読書をする場合ですと、読み飛ばさずにすべての文章を読むことになりますから、内容の理解により時間をかけられるということですね。そしてそれは読んだ内容についての幅広い解釈、中身の吟味といった、本を“味わう”ことにもつながっていきます。(以上、上記記事より引用)

遅読が文章を味わう行為であることを援用すると、現代は物事を味わうことを捨て、その分情報攻勢に身を任せようとする社会とも言えるのではないか。情報の駆け巡るスピードは速く、Twitterを数日、いや、数時間離れただけでも乗り遅れたような気持にさせられる。

十分に味わうという行為ができないままに次の情報が流れてくる。確かに得たはずの情報を思い出しづらくなっている。そもそも思い出せるほど触れているか、怪しくなってくる。

 

情報に溢れたこの時代、ものに溢れたこの時代、いくらでも贅沢ができる。欲しいものは指先ひとつで手に入り、細分化された嗜好にあうものを手に入れることができる。

それは本当に贅沢なのだろうか?

國分功一朗『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫、2021)に浪費と消費についての言及がある。

すなわち、ここでいう浪費は必要を超えて物を受け取ることであり、消費は観念や記号を受け取ることである。そして贅沢とは浪費のことを指す、と。浪費には限界があり、消費には限界がない。

この考え方を知ったとき、買い物依存症も消費に限界がないからこそ引き起こされるのではないだろうかと思った。

その「物」自体が欲しいのではなく、「高級品」や「流行りもの」という概念、あるいは「それらを買っている」という行動に意味を見出す。そのものに価値があるのではなく、その物に付された概念に価値がある。

しかし「高級品」「流行りもの」という概念は効果が持続するものではない。高級品には廉価な模造品も製造されるし、そもそも大量生産が可能になれば値崩れする。おととしの流行を私は思い出せるだろうか?

消費は贅沢ではなく、「買わなくてはならない」という強迫観念に駆られて行われるもので、手に入れた後のことを考えない。だから、消費にかけるスピードはできるだけ短い方が良い。

浪費は「手に入れて味わいたい」と、自分のもとに来た後のことに力点がある。味わうためにはよく咀嚼する必要がある。だから、浪費には時間がかかる。

 

エンターテイメントを消費と捉えるか、浪費と捉えるか。インタビュアーとSixTONESの間には、その齟齬があったのではないか。

 

アイドルは浪費されたいのではないか

 

目新しさはすぐに飽きるもの
次から次へ猿真似信者が
ひとまずその場を大分埋めたね
しばらくして何してるだろう

 

星屑の木箱 中身は何でしょう
価値も分からない奴が値札つける
逆らう者には花束をあげよう
従う者には紙とペンをあげよう

(『僕らの使い捨て音楽』LIPHLICH)

明らかに流行とその模造品のことを言っているこの曲が大好きだ。「流行」「高級品」という概念を買うために値札をつける人たちには紙とペン。小切手を書くためだろうか?  花束はお別れ。

私がSixTONESのことを考えるとき、かなりの頻度でこの曲が頭の中に流れる。

音楽は購入して終わり、視聴して終わりではなく、CDを購入したあと、ライブに行ったあともずっと続く。

 

大我さんは雑誌の連載でこう述べた。

ライブではスタッフさんが照明を当ててくれて、ファンの人たちの応援でアドレナリンが出ているから、そこで輝くのは当然のこと。ライブが終わってからも、見てくれた人の心のなかで輝き続けられる存在でありたいね。

(「すとーんずのれんさい vol.135」『週刊TVガイド』2022年3月11日号)

「見てくれた人の中で輝き続け」る。その日のライブを何度も何度も反芻し、咀嚼しなければ、心の中にあるアイドルは輝かない。時間をかけて、記憶の形が変わっていくことまで含めて、参戦した誰かの裡にあり続けること。

それは消費では不可能だ。浪費は必要を超えて物を受け取ることであり、消費は観念や記号を受け取ること、ということを横に置いても、消費は「(ものなどを)使ってなくすこと」、浪費は「(金銭や時間を)必要のないことに使うこと」である。

極端に言ってしまえば、エンターテイメントは、それで生計を立てている人は別として、ほとんどの場合では生命維持活動に関わらないものだ。

けれど人生に花を添える。使ってなくならないものを得ることができる。何度でも味わえる。

 

アイドルは、だから、浪費されるためにその身を晒しているのではないか。

 

その身をさらけ出しているアイドルが他の芸能人より一段高いことも一段低いこともないと、私は思う。ただどこに軸足があるかが違うだけで。

そして充分に浪費されるためにさまざまな側面を提供し、思いを巡らす時間をもたらしているのではないか、とぼんやり思った。

 

 

私たちは、何度もくり返しバーナム博物館へ戻ってゆく。〈中略〉ようこそ、バーナム博物館へ!  それで十分なのだ、私たちにとっては。それでほとんど十分なのだ。

ミルハウザー『バーナム博物館』)

 

 

自分が少し見えた気がしたはなし。

『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』(國分功一郎/熊谷晋一郎、新曜社)を、繰り返し読んでいる。

 

読んでいて、綾屋さんのエピソードでふと自分に思い至った。

私の場合、なにかを感じたりするとき、脳内はいろんな情報に等価値を認める。そこから止まらない出力がはじまる。

 

例えば、ハンドクリームを塗ろうとしたとき、誰かがちょうど小銭を持って自動販売機に向かおうとしている。私は、その人が机にガムシロップを常備していることを思い出す。ガムシロップのねばつきと、ハンドクリームのぬらつきが結び付く。

私の手はハンドクリームの蓋を開けながら、私の言語は「ガムシロップを塗らなきゃ」と呟く。私の目にはハンドクリームの容器が映っているけれど、脳内はあのなんとなく透けているような濁っているような容器にシロップが充填されている像を結ぶ。

 

だから、脳みそが忙しいし、うるさいなと感じる。

そう感じるとき、私は私の脳を他人のように扱っている。

 

よく他人に「変わっている」だとか「不思議ちゃん」扱いをされるけれど、私から見たら他人の方が変わっている。

けれど、上司からはっきり「あなたはバランスが悪い」と言われたし、友だちからも「謎の一瞬の間を生むタイプ」と言われるから、マジョリティから見たら変なのは私なのだろう。

 

私はアイドルが好きだ。特に好きなアイドルに対して、思考回路の近さを感じている。

彼は「喋らない」「喋ると突飛」なんてよく言われている。彼の発言のあとに笑いが起きたり、?が浮かんでいる人がいたりするのも、同じアイドルのファンが「ぶっ飛んでてワロタ」とか感想を呟いていたりするのも、私はよく分からない。

理屈としての理解はできるけれど、心境としての理解はできていない。

だってそう出力されるのが自然だな、と思うから。

 

「ハッピー」と「メリークリスマス」が結び付いて「ハッ……メリークリスマス?」になるのも、「クリスマスツリー」がつづまって「クリー」になるのも、「歯ごたえ」のある海老の感想が「口ごたえがすごい」になるのも、ぜんぶ、分かる!と思うのだ。

 

全肯定オタクになりたい、という意味ではない。きっと全肯定する、ということと、分かる!と思うことは私の脳ではベクトルが違う。

 

彼もものをつくるのが好きだと口にするけれど、私もものを作るのが好きで、どうでも良いことは極端にどうでも良い。完成したものは、私の中でアウトプットを求めるさまざまなものが上手に統合されてくれたものが多い。

統合できないときは、とっちらかったままのアウトプットになってしまう。

 

たぶん、大好きなアイドルは、私よりも過去の入力量が多かったから、パターンの引き出しも多い。予測誤差も私より少なくなっているだろうと思う。だから必要なときにはそちらの蓋を開けることができる。

でもラジオのワンコーナーでは、そのよしなしごとが面白いと思われているんだろう。赴くままに、というよりも赴いてきたもののままに、でも自分の中では論理が通っているままに話しているように感じる。

 

自分に似た線の描き方をしながら、自分とは異なる環境に身を置いているみたいに見える。

 

『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』を読んで良かったと思う。

生きていることは苦しいけれど、私の脳内と世界の線の引きかたの違いが、何となく見えたような気がする。

どこまでが私を原因とするもので、どこまでが他者との相互作用によって引き起こされるものなのかはまだ分からないけれど、そういう状態が私を座として生成されていることも何となく腑に落ちた。

 

この本を読む前に、『暇と退屈の倫理学』と『中動態の世界』も読んだから、その感想もいずれ書きたい。(感想をと言いながら、自分に引き付けているだけなのだけれど。)

 

あとこれは完全な蛇足だけれど、私が音楽を求めるのはきっと、インプットされる総量を減らす時間をつくるためのような気もする。

 

 

ヴィジュアル系の夜から、ジャニーズの畔に

音楽文のサービスが終わるので、以前書いたものをブログに残します。

2021/2/9に音楽文に掲載されたものです。

 

ヴィジュアル系の夜から、ジャニーズの畔
Moranに背中を押されて、SixTONESの懐へ
2021年2月9日

 


2015年7月。Moranのラストシングル「夜明けを前に」(レーベル:SPEED DISK)がリリースされた。

あの頃私は電車が1時間に1本しかない片田舎で、それなりに幸せな大学生だったと思う。学ぶことは楽しい。大好きな作家のことばを読み解いて、同時代の出来事を調べて、空気感を理解した気になって、読みの浅さに落ち込んで。毎日が残されたことばに向き合う日々だった。
けれど、田舎特有の鬱屈。
バイト先にはうちの4代前のお爺さんの名前まで知っている、5軒先の奥さんが勤めている。お客様は中学の同級生。
探している本は、電車で2時間はかかる図書館にしかない。図書館で目当ての本を借りて、カフェになだれ込んで行くのが19時。
22時には終電車が出てしまう。とりあえず1冊、1回読み通せれば上々の日だ。大概は大学の課題に関わりそうな部分をピックアップするだけで、あっという間に時が来る。
ようやく最寄り駅に着いたら、近くのパーキングに置いていた車に乗り込み、20分車を走らせてようよう家にたどり着く。
ずるずるとたどり着いた先にも、私をずっと知っている世界しかないような気がして、未来は空虚なものだった。

そんな日常の中で、Moranは輝いていた。ずっとボーカルのHitomiさんの声にすがり付いていた。
Hitomiさんは、心の鬱屈した場所をそっと包み込んで、慰めてくれるような気がしていた。
本を借りるという大義にかこつけて、Moranのライブに足を運んだ。

そんな中での解散発表、ラストシングルのリリース。

田舎の夜は暗い。街頭は、家に近づいていくに連れて間隔が開いていく。駅のそばにはぽつり、ぽつりと並んでいたのが、信号を2つ越えると、ふっと底が見えないほどの間隔になる。
ヘッドライトに照らされているから、先は見えるのだけれど、言い知れない暗さに、まるで未来を見ているような感傷に浸っていた。
ああ、この道が、たぶん未来なんだと。
暗くてよくわからないけれど、きっとすでに知り尽くしてしまったようなこの道を行くようなものなんだ。

リリースにあたって、Hitomiさんはインタビューにこう答えている。
「(前略)闇の中に光を照らすことを肯定的に歌うバンドが多いのに対して、Moranは光によって暴かれてしまうものを闇をもって包み隠して守ってあげたいというコンセプトで作品を作ってきたバンドなんです。マジョリティではなくマイノリティの子たちに響くものをというスタンスで活動してきたので、みんながMoranを失ってしまうとき、“その子たちに自分たちがしてあげることって何だろう”って。不安だったり、怯えているコたちを少しでも勇気づけてあげられる歌詞を最後に書きたかった。これから夜が明けてしまうけど、怯えないでほしいって。」(ViSULOG 2015年7月7日掲載)

はじめは、よく分からなかった。
私の鬱屈を包み込んで、それでもどうにか生きることを優しく肯定してくれていた彼らの、これが最後と思いたくなかった。
じわじわと近づく解散の日。最後のライブに立ち会うべきなのか。発表されてから、チケットが発売されてからも迷って迷って、もうMoranの音楽には触れられないのだからと、どうにかしてチケットを買った。

端的に言えば、ライブは寂しかった。
もちろん楽しかったのだ。大好きな音楽で、その空間でしか味わい得ない高揚感。Soanさんの煽り。Siznaさんのソロ。Ivyさんのベースの響く音。viviくんの奏でるギター。フロアが一体化したようなフリ。

でも、終わりは時間が連れてきてしまう。一曲、一曲、そらで歌えるようになったあの曲もこの曲も通りすぎて、ライブは幕を閉じた。

友人に電話をかけて泣きじゃくりながら一路ホテルに向かう。あー、きょうは電車に間に合わないだろうって、宿泊予約しておいて良かった。淋しさを紛らわすためにそんなことを嘯いて、ライブの情景を思いだし、やっとの思いで道を歩いた。

それからずっと、Hitomiさんのインタビューのことを考えていた。夜が明けるのはいつなんだろう。
音楽に深入りしたら、辛いことが待っているじゃないか。もう、解散するとか脱退するとか、見たくない。音楽に深入りしないで、好きなものを浅く聴いていこう。

以来、中学生の頃に部活で取り組んでいた吹奏楽の楽曲や、友達に進められた曲は聴いていたものの、ライブに行こうという熱は失くなってしまっていた。

ところが2019年の年の瀬。
SixTONESに出会ってしまった。きっかけはTVCM。彼らのデビュー曲が流れてきた。
何となく気になる。調べると、YOSHIKIさんが楽曲提供している。ただその時は、それだけだった。
気にはなるけれど、社会人になってジャニーズにハマる?と、自分のアンテナを無理やりねじ曲げた。

それが愚かだと気づいたのは、2ndシングルの音楽番組でのパフォーマンス。力強く歌う彼らの声。見せ方。
もしかしたら、Moranとは違うけれど、包み込んでくれるのかもしれない。
発売から少し経って、彼らのCDを手にした。

久しぶりの、誰に進められたわけでもない、元々傍にあったのでもない音楽。彼らの音楽は私の家に招き入れられた。否、私が彼らの音楽に招き入れられたのかもしれない。

彼らの音楽は、前に進むことを歌うものではあるけれど、でもそれは暗闇にいる自分を否定するものではなかった。
そもそもが生きる意味を問うところが1stシングルなのだ。それは明るいところにいる人間にも、薄暗い部屋の隅にいる人間にも等しく突きつけられた命題だろう。
2ndシングルでは視点の変換を求め、3rdシングルではそこから新しい時代へと一緒に進もうとする。

彼らは音楽を通して、人間ひとりひとりの生死に寄り添っている。


暗がりの中で未来を諦めていた私は、5年も経って、Hitomiさんのことばをようやく咀嚼できたのだ。
いつか人はいなくなる。けれどそれは自然の摂理で、だからこそ朝の陽射しを受け入れるために準備をしなくてはいけない。

朝は怖い。けれど目を開ければ案外なんてことない日がくるのだ。
そして窓を開ければ、一緒に前に向かう人だって向こうから歩いてくるのかもしれない。


音楽は、祈りだ。

世界にある暗闇をそっと包み込んで、陽射しを与え、人を支える。
そっと私を守り続けてくれたMoranの音楽に耳を傾けながら眠りについて、私の扉を開けてくれたSixTONESの音楽とともに街を行こう。

私は、生きている限り、祈りを抱いていこう。
私も誰かを支える祈りになれるよう、明日、生きていこう。

世界がある限り、きっと、ずっと音楽は続いていくのだ。