Pray through music

すとーんずにはまった元バンギャの雑記。

顔とか。文体とか。京本さんとか。

"顔は人間の内と外とをむすぶ表玄関である。
文体は認識の内と外とをむすぶ表玄関である。"
安部公房「文体と顔」19591105)

FINEBOYSplusBEAUTYの京本さんインタビューを読んで、このことばを思い出しました。

人間の見た目は、人間の内と外とを結んでて、文体はーーーことばは、自分の受け取ったものを外と繋げるツール。

"顔"と言えば、安部公房は『他人の顔』が思い浮かぶ。
事故でケロイドだらけになった顔を包帯で隠す主人公と寄り添う妻。
仮面を手に入れて行動的になる主人公。よろこぶ妻。自分ではないふりをする主人公と、その嘘に気づかないふりをして、夫の行動を受け入れる妻。

ドアを閉めた夫と、そのドアが開くのを待っている妻。


FINEBOYSplusBEAUTYで京本さんは「数年前までかなりきつい顔をしてました。最近、穏やかな顔になったと言われることが多くて、僕が求めていきたい人間像に近づいているのがうれしいんですよ。」ってインタビューに答えてる。

芸能人だから、というのもあると思うけど、顔と内面の関係にかなり自覚的だなあ、と思う。

「未完成な人間だという自覚、そして自分の中にこれだけは絶対に譲れないという熱いものを持っておけば、人に寛容になれると思うんです。」

自分が未完成であると認めるまでにどれほどの葛藤があっただろう。

『他人の顔』の主人公の認識は、顔を失ったこと=完成したところからの欠落だったんだろうな、と思う。人間の顔は、毎日、毎時間、毎秒変わり続けるのに。

生きているものは動き続ける。うつくしいものの動きを標本に留めて置くためにことばや写真や音楽がある。世界にうつくしいものを残すために、人はことばを紡ぐ。

もちろんうつくしくないものだって残す必要があれば、人はことばを用いる。

文字が発明されて教育されていく中で、記憶は書くことに置き換わって、音声や映像が留めておける状態になって。

世界が変わっても、人は変わらずうつくしいものを求めてる。

それが自分の中に向かうのか、外に向かうのかは違うけれど。

"作者は、自己を他に同化する。
読者は、他を自己に同化する。"
安部公房「文芸日記1956」九月一日の項)

京本さんはきっと中に向かう人だ、って私は推測してる。自分がうつくしい人になること。
これは外見上の美ではなくて、人間として、他者に向き合う上でうつくしいかどうか。

自己をうつくしいものにしようとする人にとって、きっと世界はうつくしいものが多いだろう。だって「自分がうつくしいのだから、世界もそうだ」って信じられる。
彼が見る世界はうつくしいもので溢れていて欲しい。完成されないうつくしさをずっと見せて欲しい。

完成されない世界で紡がれる彼のことばが、私はとても好きなんだ。