Pray through music

すとーんずにはまった元バンギャの雑記。

怪物をめぐる一思考——SixTONES『ABARERO』MVについて

 

衝動性とは何か—善悪をめぐって

SixTONESオフィシャルWebサイトにおいて、『ABARERO』は下記のように紹介されている。

9枚目のシングル「ABARERO」(読み:アバレロ)は、その名の通り、誰にも止められない衝動・溢れ出す本能を解き放つ、型破りな"超攻撃型"HIPHOPチューン。

www.sixtones.jp

衝動的であること、本能的であることは、社会で生きる上で必ずしも良いこととして扱われない。むしろ「考えなし」「人の迷惑を顧みない」などと謗られるのが常だろう。

一般的な価値観を踏まえれば、衝動や本能に身を委ねんことは忌避すべき行為である。善悪二元論で捉えた際には、“悪”と規定されるだろう。しかしそもそも善悪とは何か?

 

善と悪について考えるとき、私は『ジキルとハイド』を念頭に置く。スティーブンソンの手によるこの小説は、「正真正銘の紳士」たるジキル博士が薬を用いて「人の姿をした鬼畜」であるハイド氏に変身し悪を行う物語だ。

しかし、『ジキルとハイド』を手に取ったことのある方なら同じ疑問を持ったことがあると思うのだが、果たしてジキル博士は本当に「正真正銘の紳士」と評されて良い人物だろうか? テクストは嘘を吐かないが、登場人物はいくらでも嘘を吐く。あるいは登場人物もテクストも、言及しないということを選択することができる。

物語は、ジキル博士の手紙によってすべての種明かしがなされるが、その種明かしも信用してよいものかどうか。

ジキル博士は医学・民法学・法学を修めた博覧強記の人物であり、王立協会員をはじめとする輝かしい称号を手にしている。対してハイド氏は誰にもその存在を知られていなかった人物だ。両者は同一人物であり、ハイド氏はジキル博士がそれまでの半生で抑圧してきた欲望の露出であるから当然のことではあるのだが。

 

尊敬される人間になりたい。それも、賢く善良な人たちからの尊敬を集めたい。そう思うこと自体は、ジキル博士が医学や法学を追究するための原動力として非常に役に立つものであっただろう。だがしかしこの願いからして、ジキル博士の冷酷さがにじみ出てしまっている。「賢く善良な人に尊敬されたい」のだ。善良であっても賢くない人間、賢くても善良ではない人間、そして賢さも善良さもない人間。そうした人間たちは、ジキル博士の眼中にはないのである。

ジキル博士は自分が選好した人間以外には見向きもしない差別主義者であると言うこともできてしまう。本人は自分の性質についてこのような評価を下している。

私には、頭を高く保っていたい、人のまえでは重々しい威厳を見せていたいという尊大な欲求があり、そういう欲求と自らの性格との折り合いをつけるというのは簡単なことではない。

(※1『ジキルとハイド』スティーブンソン、訳:田口俊樹、新潮社文庫、2015年初版)

果たして自分の欲求に従順に“悪”を為さんとするハイド氏と何が違うだろうか?

学問を修めることそれ自体には、強い抑制力が働くだろう。研究は、一朝一夕に結果が出るようなものではない。地道な繰り返しによって道が拓けてくる。というか、地道な繰り返しによってしか、拓けるものはない。

世の中に“善”とされるものはつまり、抑圧されたものの成れの果てでしかなく、善がはびこる世界とはだれもかれもが我慢を強いられている世界である。見方によっては、“悪”のはびこる世界の方がずっと自由ではないか。自己の快を徹底して求めることが許されている。

しかし“悪”のはびこる世界であったら、常に簒奪が行われる状態に身をおかなくてはならない。“善”と“悪”の二項であったら、私はまだ少しの差で善性の支配する世界に身を置いた方がよいと判断する。

 

ところが、だ。このMVでは明らかに”善”の世界から逃げ出し、”悪”の世界へと移行するMonstersを主役に据えている。

我慢ならない抑圧への抵抗。”善”と”悪”との反転が起こっている。

 

抑圧するものは何か—壁をめぐって

それでは、抑圧は具体的にどのような形で示されるのだろうか? 一つは、大我さんの閉じ込められているあのケースだろう。ケース様のものということは、言うまでもなく、内に在る者から見れば壁に囲まれるということを意味している。

石川淳安部公房芥川賞受賞作『壁』(月曜書房、1951年、本ブログでは新潮文庫より引用)に寄せた「序」において、このように述べる。

長いあいだ、壁は人間の運動にとってずいぶん不便な、不届きなものでした。というのは、位置の固定、すなわち精神の死であったからです。

〈引用者註:壁〉はあくまでも人間の運動を妨害するために、圧倒的に逆襲してくる。部屋の中にいてさえも、壁は風雨をふせぐという著実な役目をわすれて、積乱雲よりもうっとうしく、時計の針も狂うほどに、人間を圧しつぶしにかかってくる。壁の復讐、地上至るところ地下室です。
壁は、建物の中に居るものを守るための装置として機能するとともに、中にいるものを圧迫する。

人間の尊厳にかかわるもののうち一つは、他者に支配されないということである。石川淳の指摘はまさに尊厳についての指摘と言える。つまり、冒頭の大我さんは尊厳を奪われているのである。

それでは尊厳を奪う他者とは何か? それは他ならぬ自己だろう。エーリッヒ・フロムはこのような記述を残している。

「良心」とは、自分自身によって、人間のなかにひきいれられた奴隷監督者にほかならない。良心は、人間が自分のものと信ずる願望や目的にしたがって行為するようにかりたてるが、その願望や目的は、じつは外部の社会的欲求の内在化したものである。良心は、峻厳残酷にかれをかりたて、快楽や幸福を禁じ、かれの全生涯をなにか神秘的な罪業にたいする償いとする。

( エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』東京創元社、1951年、日高六郎訳)

ここで注目したいのは、「ひきいれられた」という表現である。「ひきいれられ」るのであるから、良心とは他者と接するうちに(意識的にであれ無意識であれ)自分の内部に侵入してくるものに他ならない。さらに言えば、その侵入してくるものこそが、社会生活においては”善いもの”とされている。

それが「ひきいれられ」なければ、人間は呵責を感じることもなく、自然状態に身を置けるのではないか。前項のおわりに、我慢ならない抑圧への抵抗と書いた。社会において“善”とされるものは必ずしも個人にとっての“善”であるとは言い切れない。自己を抑圧するものを人は“善”と呼んでいる。個人にとっても“善”であるのであれば、人は呵責の念を感じずにいられるだろう。

 

押し付けられたがために苦しめられる。だからこそジェシーくんは「俺はずっと逃げてるモンスター」(『Songs Magazine vol.10』リットーミュージック、2023年4月)なのだろうし、大我さんはジェシーくんの”SHOUT”に呼応する形でガラスを割るのだろう。

手で触れるか触れないかのうちにあっけなく割れた壁に、大我さん=“悪”は何を思っただろうか。

世の中に“善”としてはびこるものの脆弱さ。

状況が変われば善悪はいとも簡単に反転する。そうした容易さに、なにがしかの失望感を覚えたかもしれない。自分が信じていた社会の規範、自分を押さえつけていたルールは自己のなかにひきいれていた他者に植え付けられたものだと了解したのかもしれない。

いずれにせよ、自分の立っている足場への信頼のようなものは失墜しただろう。

 

それではなにを信じるべきか? 自分を取り巻いていたものは信用に足りない。内なる声とでもいうべき衝動性。それのみが自分を貫いている。頼るべきはただ唯一、それ以外にない。己を支えているのは、社会に要請されるような正しさではない。

ガラスケースの置かれている、地下らしき空間を、ある一人の体内のメタファーだと捉えてみる。すると、地下空間を支えているのは鉄骨=骨と外壁=皮膚であると捉えることができる。また、ガラスケースにつながれているパイプは血管ではないかと推測できる。

すれば大我さんのいる空間は心臓だろう。人間は、(実際に考える器官は脳であるにもかかわらず)「心が熱くなる」「心に秘める」などと言う。

大我さんは文字通り、「秘められた攻撃性」を表す存在として、あのガラスケース=心臓の裡に座っているのである。

なぜ壁が透明である必要があるのかは、これで明らかになったように思う。つまり、あの空間を一人の人間として捉えたとき、他者からは欲望が見えずとも、己には己自身の欲望がよく見えているからだ。

『ABARERO』はおそらく、二重人格のキャラクターを描いている。それは『ジキルとハイド』のような描かれ方である。ガラスケースは、ハイド氏を隠しておくべき心という場所を示している。

ジキル博士を他人が見たときにはハイド氏の姿は見えようもないが、ジキル博士本人には心の深いところに沈めておくべきハイド氏の姿がよく見えている。

ハイド氏はうろつき、悪を為すときを望んている。

 

年齢をめぐって―抑圧はいつ起こるか

ところで衣裳とライトに着目したとき、面白いことに気づくと思う。慎太郎を除く5人は赤を基調とした衣裳を纏っている。これはMonstersを象徴しているだろう。また、彼らはソロパートにおいて青ないし赤のライトに照らされている。私は、青を赤に対立する要素として捉えた。つまりMonstersを討伐、まではいかなくても押さえつけるための正義を象徴する色と考える。

しかし慎太郎くんのみ様相が異なる。彼を照らすライトは黄みを帯びているし、衣裳もその黄みを弾くような光沢のある上着が印象的だ。

どうして慎太郎くんのみ、このような状況になっているのか?

ゲーテ『色彩論』を引くと、このようなことが書いてある。

これは光に最も近い色彩である。〈中略〉黄色は純粋な状態においてはつねに明るいという本性をそなえ、明朗快活で優しく刺激する性質を有している。

黄色は純粋かつ明るい状態においては快適で喜ばしく、また強烈なときは明朗かつ高貴なところを有しているが、これに反してこの色彩がきたなくされたり、ある程度までマイナス側に引き込まれる場合にはきわめて敏感であり、ひじょうに不快な作用を及ぼす。

ゲーテ「色彩論」『ゲーテ全集14 新装普及版』所収、1980年初版、2003年新装普及版)


光。無垢とも考えられうるもの。あるいは私たちは、黄色になにか子どもらしいイメージを抱く。子どもは周囲の環境に応じて自らの常識を形成していく。何者にも染まっていない少年が赤=Monsterの世界と青=抑圧者の世界の相剋を見ていることを、あのライトは示しているのではないか。

 

途中、慎太郎くんが青い光を指先で操るシーンがある。

あれこそ子どもの純粋さの最たるものだろう。青はおそらくこのMVにおいて、道徳を表す色である。

自我を持ち始めたくらいの子どもは、それが善だとか悪だとかを考えずに、自分の周囲にあるものを手あたり次第に弄ぶ。大人たちがそれを見咎めるからこそ、悪いことであると学ぶ。

それでは周囲がそれを見咎めなかった場合にはどうなるだろう? 秩序の側から"悪"と呼ばれるものに成り果てるだろう。純粋に育ったが故の"悪"。

いわゆるピュアであるということは、本当に推奨されるべきものだろうか?

 

ものを知らないということは、その人物が様々な情報に染められていないということを示す。染められていないことを良しとするのであれば、そもそも教育など必要ない。

私たちは実生活において、子どもの持っている純粋性を否定する。純粋さを肯定するのであれば、何も教えずにその子どもの恣にさせておけば良いのだ。

常識もない。知識もない。落伍者と認識されるようなもの。それがピュアであることを徹底した場合の行く末だ。

或いは太宰治は、こう述べている。

人が「純真」と銘打っているものの姿を見ると、たいてい演技だ。演技でなければ、阿呆である。家の娘は四歳であるが、ことしの八月に生れた赤子の頭をコツンと殴ったりしている。こんな「純真」のどこが尊いのか。感覚だけの人間は、悪鬼に似ている。どうしても倫理の訓練は必要である。

太宰治「純真」『もの思う葦』新潮文庫、初版1980年)

 

慎太郎くんの位置は、赤にも青にもなり得る子どもであると捉えるのが妥当だろう。

そして、青=道徳の側による教育の機会を得なかったから赤の側に属するようになったと、私は理解する。子どもが社会に参入するためには、大人の手によって強制的に矯められることが要請されているのである。

矯められないままに育つ子ども。そういえば、ハイド氏はこのように記述されている。

私の邪悪な側面は、明確な力を与えられてもなお、お役御免となった私の善良な側面より弱く、未発達なものだった。というのも、それまでの私の人生は九割方、努力、廉潔、抑制というものに支配されており、邪悪さのほうは実践され、利用され尽くす機会がずっと少なかったからだ。エドワード・ハイドがヘンリー・ジキルよりずっと小柄で痩せていて若かったのは、そのせいだろう。加えて、ジキルの顔には善が光り輝いていたのに対して、ハイドの顔には悪が露骨にあからさまに塗りたくられていた。

鏡に映った醜い虚像を見て、私が覚えたのは嫌悪感ではなかった。むしろ小躍りして受け容れたくなるような喜びだった。これもまた私なのだ。その私はいかにも自然で、人間的に思えた。私の眼にはより溌溂とした精神の像として映った。(※1)

ジキル博士からすれば、「悪が露骨にあからさまに塗りたくられて」いるハイド氏はしかし、「溌溂とした精神」を持った、「人間的」で「未発達」な存在である。また、対する自分のことは「努力、廉潔、抑制」にと支配された存在であると表している。ジキル博士はこの時点では、自分の分身であり、自分が生み出した子どもとも言えるハイド氏を矯正するつもりなど毛頭ない。解放してやるために生み出したのだから、自由にさせるのが道理だ。

生命を与えられた“悪”は伸び伸びと己の本領を楽しむ。生みの親であるジキル博士を驚嘆させるほどの成長を見せる。

実のところ、私が生み出すことの出来る分身は、その頃にはよく体を動かし、栄養も充分にとるようになっており、身長も伸びたように思われ血がより豊かに全身をめぐっているのが意識され、私としてもひとつの危険性を疑わないわけにはいかなかった——この状態がさらに続くと、私の人格は永久にバランスを欠くことになるのではないか。自在に変身する力が失われ、エドワード・ハイドに体を乗っ取られてしまうのではないか。(※1)

成長したハイド氏を目の当たりにしたジキル博士は、制御できなくなりつつあることに恐れをなす。そうして自分ごとハイド氏を葬り去ろうとする。自己同一性の保持ができなくなるのであれば、自らの手で壊してしまうしかない。

ジキル博士は随分身勝手ではないか。様々なしがらみに雁字搦めになっているからこその身勝手さなのだろうか。自ら生み出した子どもが自分の制御できないものになりつつあるとき、大人は押さえつけにかかる。

慎太郎くんは、子どものような眼を通して、そうした大人どもの欺瞞を見ているのではないか。“善”も“悪”もないような子どもの眼で。

 

正しさとは何か?—善悪をめぐって②

繰り返しになるが、ジェシーくんはMVで運転するシーンを指して、「逃げてる」と述べた。

なぜ逃避の必要があるのだろうか? 相手が自分にとって正しいのであれば、逃げる必然性など一切ない。しかし明らかにジェシーくんは、"正しい"ものから離れていこうとしている。

 

正しさを規定するものとは何か。有象無象の声である。世論だとか風潮だとか言い換えても良いかもしれない。もちろん社会生活を営むうえでは一定以上の合意が必須であり、手放しで否定すべきものではない。しかしながら、現代の社会では正しさに重きが置かれ過ぎてはいないだろうか。

國分功一郎はこのように指摘している。

現代社会はあらゆるものを目的に還元し、目的からはみ出るものを認めないようとしない社会になりつつあるのではないか

不要不急と名指されたものを排除するのを厭わない。必要を超え出るもの、目的をはみ出るものを許さない。あらゆるものを何かのために行い、何かのためでない行為を認めない。あらゆる行為はその目的と一致していて、そこからずれることがあってはならない。

國分功一郎『目的への抵抗 シリーズ哲学講話』新潮社、2023年)

國分は、目的をはみ出すものが排除される世界への警鐘を鳴らしている。目的をはみ出すものとは何か。一般に“あそび”や“ゆとり”といったことばで表現されるものだ。

ジキル博士の告白に戻ろう。

私は途方もない二重人格者ではあったが、偽善者では決してなかった。二人の私はどちらも真面目そのものだった。抑制が利かず、汚辱にまみれる私も、白日のもと、知識の蓄積や、人の悲しみや苦悩の救済に勤しむ私も、どちらも同じ私だった。

〈引用者註:ジキル博士は〉人間が抱えるふたつの人格を分離して考えるのが愉しみだった。ふたつの人格が別々の個体に収められていたら、とよく自問するものだ。その人間の人生は耐えがたき悩みのすべてと無縁のものとなるのではないか。(※1)

先にみたように、ジキル博士は人生のほとんどにおいて、制禦力を以て自らの地位を築いてきた人物である。その人物にとって、“悪”を志向する自分は排除すべきものである。

社会的な価値の高い人々から尊敬されない自分は不要の長物である。「頭を高く保っていたい、人のまえでは重々しい威厳を見せていたい」という目的に合致しない人格は忌むべきものであり、気付かれないように“悪”を遂行するか、さもなければ葬り去った方が良い。ジキル博士の考える”善”とは抑圧の別名に過ぎず、無理やりに自分を矯正してしまうものに他ならない。

 

結局のところ、ジキル博士は“悪”の象徴たるハイド氏と“善”を司る自分とを分離することに失敗して自死を選んでいる。だから、その企み自体がジキル博士の手に負えるものではなかったのだ。なぜ失敗したのか? やや迂遠に感じるかもしれないが、意志概念について考える必要があるだろう。これに関しても、國分功一郎の指摘を参照したい。

ハイデッガーによれば、意志するとは、「考えまいとすること」、「忘れようとすること」、そして「憎むこと」である。ハイデッガーがそのように述べるのは、意志を切断と捉えているからです。

過去を眺めることなく、未来だけを見つめて、「未来を自分の手で作るぞ」というのが意志だ、と。それは過去を自分から切り離そうとすることです。ハイデッガーによれば、そうしている限り、人はものを考えることから最も遠いところにいることになる。

昔のこだわりを捨て、痛みもコントロールでき、悲しくなったり寂しくなったりしても自分ひとりでなんとかできる。都合の悪い過去は全部切断することができる。そのいっぽうで「自分の人生はこういうふうにキャリアデザイン」とつねに前向きで未来志向的な物語化を行う。

國分功一郎・熊谷普一郎『〈責任〉の生成—中動態と当事者研究新曜社、2020年)

ここで指摘されていることは、ジキル博士の行為と非常に似てはいやしないだろうか? 

「人間が抱えるふたつの人格を分離」させることでそれぞれの人格にとって都合の悪い部分からは免責され、「耐えがたき悩みのすべてと無縁のもの」になろうとしている。

「都合の悪い過去は全部切断」するというのも、まさにジキル博士が実践しようとしていることである。ジキル博士は、ハイド氏に変身している際にした犯行もジキル博士に戻れば証拠隠滅できるという、「特異な免責」を行使する。己の罪過を引き受けるつもりのない人物である。

一般的な価値観からいって、当然これは正しくない人間の振る舞いだろう。しかしジキル博士あるいはハイド氏が亡くなりすべてが白日のもとに晒されるまで、ジキル博士は「正しい」人間であったのだ。

ジェシーくんが「正しく」ない自分を切断しようとしてくるものからの逃避を企図するのは、当然の帰結であると言えるだろう。

 

自由をめぐって

ここまで二重人格ものの古典である『ジキルとハイド』を重要な参照点として論を進めてきた。今一度、オフィシャルサイトにおける『ABARERO』の紹介を確認しておこう。

9枚目のシングル「ABARERO」(読み:アバレロ)は、その名の通り、誰にも止められない衝動・溢れ出す本能を解き放つ、型破りな"超攻撃型"HIPHOPチューン。

さらに、『音楽と人』2023年5月号(発行:株式会社音楽と人のそれぞれのコメントを確認する。

ジェシー】バラードもポップな曲もあっていいですよ。でも、こっちが本流って勘違いされる、ギリギリのとこまで来てた。ドラマや映画、声優、バラエティ、いろんなことをやるのはいいんです。アイドルだし、むしろそれは誇り。だけど音楽でやってることがブレたら、それすら崩れちゃうから。〈中略〉ずっとこういうのをやりたかったし、こっちがSixTONESの本質なんだってことを伝えたかった。

【京本】SixTONESはこういう楽曲を打ち出さなきゃいけないって、ずっと思ってました。とくに最近、ポップやバラードの楽曲が目立ってたから、今こういうものを出さないとまずいなって。〈中略〉もっとわかりやすい、ポップなもののほうが広がるって考え方はわかるんですけど、今回ばかりは、僕らが貫きたいと思っている気持ちや熱量みたいなものを、どうしても出したかった。

【北斗】CDデビューを機に、あれもこれもやってみたいっていろいろ挑戦してきたがゆえに、僕らはどんなイメージを持たれてるんだろうっていう不安も少しあったんです。どれがこのグループの芯なんだ? って、自分たちでも少し曖昧になりかけてるところがあった気がして。だからドームを前に改めて自己紹介をしましょうって感じでした

【髙地】〈ABARERO〉は原点回帰みたいなところがあるんです。Jr.時代ってオラオラした楽曲が多かったんですね。でもCDデビューさせてもらってからは、いろんな楽曲をやるようになっていって。やりたいことはたくさんあるけど、今みたいに広げていくだけでいいのかな? って6人でもなって、レーベルの人に『次のシングルはもっと攻めたい』っていう提案をさせてもらったんです。

【慎太郎】今回はJr.の頃からやってきた自分たちのベースとなる音楽をブラッシュアップして、進化させたものが入ってますね。唄い方はこうしよう、音の強さはこっちがいいんじゃないか、もっと雑さがほしい、といった要素を詰め込みました。自分たちの意見が相当入ってるし、SixTONESの世界観をかなり出せてると思います

【樹】〈引用者註:『ABARERO』のラップ詞は〉マジで、自分で書きたいって言おうかと思ったけど、その気持ちで唄えばいいかなって。でも、このリリックは全部気持ちいいですよ。かなりギリギリのラインを攻めてるし

上記を読んで分かる通り、彼らの思考はジキル博士とは逆をいっている。ジキル博士は世間に善いものとして認められる自分以外を排除せんとしていたが、SixTONESはむしろその逆に向かってこの『ABARERO』を完成させている。

ここには当然、世の中に対する問いが含まれている。社会に迎合しすぎることが果たして正しいのか?  という問いだ。

すると、再三の言及になるが、ジェシーくんの「俺はずっと逃げてるモンスター」という証言はかなりの重みを帯びてくる。

ジェシーくんが逃げていたのは、「正しい」ことを押し付けてくる世間からであり、置かれた状況から脱出するための道を探すことによってしか見えてこないものがあることを表しているのではないか。「暴れろ」「騒げ」「SHOUT(叫べ)」と煽り立てることもまた、「こっちが本流」であると勘違いされつつある現状への反抗だろう。

 

國分功一郎はこうも述べている。

スピノザによれば、自由は必然性と対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。〈中略〉自由と対立するのは、必然性ではなくて強制である。強制されているとは、一定の様式において存在し、作用するように他から決定されていることを言う。それはつまり、変状が自らの本質によってはほとんど説明されえない状態、行為の表現が外部の原因に占められてしまっている状態である。

國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』医学書院、2017年)

ここに書き記されている「自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由である」という指摘と、ジェシーくんの「ずっとこういうのをやりたかったし、こっちがSixTONESの本質なんだ」、大我さんの「今回ばかりは、僕らが貫きたいと思っている気持ちや熱量みたいなものを、どうしても出したかった」は響きあって聞こえないだろうか?

SixTONESはハイド氏のように描かれながらも、ジキル博士に代表される“善”、有り体な

正しさに飲み込まれず、超克することによって新しい地平を見せている。

 

だからSixTONESを追いかけることは面白い。現状を見つめ、それで良しとせず、自分たちの核を発信し続けること。時流は読みつつも、流されるままに行くのではなく、反骨心を以て世間に問うこと。己の頭を使って思考すること。すべてが統合体となって、エンターテイメントとしての魅力が増すのだと思う。

 

明日5/12にMV解禁になる『こっから』も楽しみだ。

世間に阿ってもそれなりの成功は得られるだろう。けれどそれを良しとしない怪物たちの挑戦が、世界をより面白くしてくれる。