自分が少し見えた気がしたはなし。
『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』(國分功一郎/熊谷晋一郎、新曜社)を、繰り返し読んでいる。
読んでいて、綾屋さんのエピソードでふと自分に思い至った。
私の場合、なにかを感じたりするとき、脳内はいろんな情報に等価値を認める。そこから止まらない出力がはじまる。
例えば、ハンドクリームを塗ろうとしたとき、誰かがちょうど小銭を持って自動販売機に向かおうとしている。私は、その人が机にガムシロップを常備していることを思い出す。ガムシロップのねばつきと、ハンドクリームのぬらつきが結び付く。
私の手はハンドクリームの蓋を開けながら、私の言語は「ガムシロップを塗らなきゃ」と呟く。私の目にはハンドクリームの容器が映っているけれど、脳内はあのなんとなく透けているような濁っているような容器にシロップが充填されている像を結ぶ。
だから、脳みそが忙しいし、うるさいなと感じる。
そう感じるとき、私は私の脳を他人のように扱っている。
よく他人に「変わっている」だとか「不思議ちゃん」扱いをされるけれど、私から見たら他人の方が変わっている。
けれど、上司からはっきり「あなたはバランスが悪い」と言われたし、友だちからも「謎の一瞬の間を生むタイプ」と言われるから、マジョリティから見たら変なのは私なのだろう。
私はアイドルが好きだ。特に好きなアイドルに対して、思考回路の近さを感じている。
彼は「喋らない」「喋ると突飛」なんてよく言われている。彼の発言のあとに笑いが起きたり、?が浮かんでいる人がいたりするのも、同じアイドルのファンが「ぶっ飛んでてワロタ」とか感想を呟いていたりするのも、私はよく分からない。
理屈としての理解はできるけれど、心境としての理解はできていない。
だってそう出力されるのが自然だな、と思うから。
「ハッピー」と「メリークリスマス」が結び付いて「ハッ……メリークリスマス?」になるのも、「クリスマスツリー」がつづまって「クリー」になるのも、「歯ごたえ」のある海老の感想が「口ごたえがすごい」になるのも、ぜんぶ、分かる!と思うのだ。
全肯定オタクになりたい、という意味ではない。きっと全肯定する、ということと、分かる!と思うことは私の脳ではベクトルが違う。
彼もものをつくるのが好きだと口にするけれど、私もものを作るのが好きで、どうでも良いことは極端にどうでも良い。完成したものは、私の中でアウトプットを求めるさまざまなものが上手に統合されてくれたものが多い。
統合できないときは、とっちらかったままのアウトプットになってしまう。
たぶん、大好きなアイドルは、私よりも過去の入力量が多かったから、パターンの引き出しも多い。予測誤差も私より少なくなっているだろうと思う。だから必要なときにはそちらの蓋を開けることができる。
でもラジオのワンコーナーでは、そのよしなしごとが面白いと思われているんだろう。赴くままに、というよりも赴いてきたもののままに、でも自分の中では論理が通っているままに話しているように感じる。
自分に似た線の描き方をしながら、自分とは異なる環境に身を置いているみたいに見える。
『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』を読んで良かったと思う。
生きていることは苦しいけれど、私の脳内と世界の線の引きかたの違いが、何となく見えたような気がする。
どこまでが私を原因とするもので、どこまでが他者との相互作用によって引き起こされるものなのかはまだ分からないけれど、そういう状態が私を座として生成されていることも何となく腑に落ちた。
この本を読む前に、『暇と退屈の倫理学』と『中動態の世界』も読んだから、その感想もいずれ書きたい。(感想をと言いながら、自分に引き付けているだけなのだけれど。)
あとこれは完全な蛇足だけれど、私が音楽を求めるのはきっと、インプットされる総量を減らす時間をつくるためのような気もする。