Pray through music

すとーんずにはまった元バンギャの雑記。

『推し、燃ゆ』をやっと読んだ。

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ようやく読みました。発売当初話題になってたこの本。芥川賞受賞、しかるべくして獲った本だと思いました。

以下、ネタバレを多分に含みます。

「推しが燃えた。」

この一文で始まる小説。「推し」は、人を殴って炎上した。
主人公を励ますのは、触れあえる地下アイドルを追いかける友人。主人公は地下アイドルにはまる友人に対して、自分は違うと考える。「有象無象のファンでありたい。拍手の一部になり歓声の一部になり、匿名の書き込みでありがとうって言いたい」というスタンスでありたいと思う。

しかし、こう語る彼女に違和感がある。
彼女は推しのことを事細かに記録するブログを運営している。「あかりさんのブログのファンです」と書き込む人すらいるのだから、相当のものだろう。
彼女のスタンスは「作品も人もまるごと解釈し続ける」「推しの見る世界を見た」いというもの。
それだけなら、20冊にも及ぶノートに書き付けているだけで良いだろう。

でも、彼女はインターネットの世界に依存しきっている。自分のブログにコメントを残す相手と、同じアイドルのファンである人のみと連帯しようとする。
「もしかするとみんな実体は少しずつ違っているのかもしれない。それでも半分フィクションの自分でかかわる世界は優しかった。」

家庭の中でも学校の中でもうまく生きられない彼女は、そこに救いを求める。

すなわち、「推し」の炎上は彼女の世界の炎上に他ならない。


背骨を失う

彼女は、推しを「背骨」と考える。周りの人間が上手にできることがうまくいかない。
教科書を借りたことを忘れる。提出すべき書類を忘れる。部屋は散らかり続けている。その散らかり続ける部屋の中で、唯一「推し」を飾っているコーナーだけが整理されている。

彼女がそこを「祭壇」というのも象徴的だと思った。
如何ともしがたい自分をただひとり救ってくれる推し。そういえばアイドルは「偶像」という意味を持つ。

その「推し」は、芸能界を引退するのだという。偶像であることを辞める。「推し」は解散会見で、結婚指輪を嵌めている。
「偶像」を辞めて、実像になるのだ。

そして、主人公はその偶像を「背骨」と言っていた。メディアやステージ上での彼が彼女の背骨だった。背骨があることで、ファン同士のつながりを得た。

しかしそれは距離的な隔たりがあり、実際の彼女の背骨に成り代わりはしないのだ。

「推しは人になった。」

主人公は、「推し」が引退した後、ネットで特定されたマンションを見に行く。

「なぜ推しは人を殴ったのだろう、という問いを避け続けていた。」「解釈のしようがない。」

彼女のスタンスは「作品も人もまるごと解釈し続ける」「推しの見る世界を見た」いというものだった。

けれど、彼女が解釈できるのは、アイドルとして露出した部分だけだ。アイドルではない部分は、彼女には解釈できない。

彼女は自分の「背骨」が虚像であったことをはじめから理解していたから、推しが人を殴ったことを解釈できなかったのだ。それは「人」である彼が行ったことだからだ。

そして、自分の背骨を失った彼女は這いつくばる。きっとブログも辞めるだろう。「半分フィクションの自分」が書いたものであり、うつくしい虚構を見せ続ける「推し」がいなければもうその世界を確立させることはできないのだ。

彼女には向き合うべき現実も、向き合うべき実像もなかった。ただ静かに、黴のにおいのする家で這いつくばる。

彼女の背骨はどこ?

一冊を通じて、彼女は現実から逃げているように見せ、その実、自分の暗部をずっと曝し続けているのだと感じた。
「推し」を解釈したいと言いながら、自分の都合のよい「偶像」にすり替えていく。何もかもうまくできない自分との落差をまざまざと描く。「背骨」を失った彼女は、次の背骨を探しに行くのだろうか。
そしてまた、次の背骨のことを書き綴るブログを始めるのだろうか。しばらくは這いつくばり生きることを宣言した彼女は、いつか人になれるのだろうか。