Pray through music

すとーんずにはまった元バンギャの雑記。

贅沢をしてますか?『暇と退屈の倫理学』( 國分功一郎)とかその他

ぐるぐる思考してまとまらないけどとりあえず……。

 

浪費とは何か? 浪費とは、必要を超えて物を受け取ること、吸収することである。(中略)浪費は満足をもたらす。理由は簡単だ。物を受け取ること、吸収することには限界があるからである。(中略)
しかし消費はそうではない。消費は止まらない。消費には限界がない。消費はけっして満足をもたらさない。(中略)人は物に付与された観念や意味を消費するのである。
(以上、『暇と退屈の倫理学國分功一郎新潮文庫、2022.1発行)

思わず膝を打った。
配信を求める、コラボを求める、関係性を求める、……私は消費の環のなかに身を置いているのだと。

 

思えば、オタクとして生きることは、消費の連続である。配信されたYouTubeの動画に沸き立った次の瞬間、「次はなにやるんだろう?」と期待する。毎日毎日、担当の新たな情報が流れてこないかSNSを開く。チケットの争奪戦に勝てるように家族や友人を総動員してみる。「あの企画、◯◯くんにもやらせてくれないかなあ」と呟いてみる。

 

アイドルを見るとき、私は彼らを消費しようとする。

桜庭一樹の『少女七竈と七人の可愛そうな大人』およびその収録作「ゴージャス」(角川文庫、2009.3)を思い出す。

この作品には、元アイドルで現在はスカウトをしている「梅木美子(乃木坂れな)」というキャラクターが登場する。彼女は言う。

性質が異質で共同体には向かない生まれのものは、ぜんぶ、ぜんぶ、都会にまぎれてしまえばいい。

(「少女七竈と七人の可愛そうな大人」)

引退すると決めたとたんに緊張が解け、このとき一気に目の周りの皮膚がくぼみました。(中略)この時がくるのを、待ちわびていた。これからようやく、生き始める。

(「ゴージャス」)

梅木の証言は、彼女が彼女自身を消費財として捉え、消費されきるときを望んでいたことを示す。美しすぎる、目立ちすぎる、そうした特質を、人は浪費ではなく消費しようとする。

(もちろんずっと長い間付き添っていくファンもあろうが)次のアイドルが産まれれば、消費者はアイドルを乗り換える。アイドルという記号を食べつくしたはずなのに、それでもなお満足しないから、次に行くのだろうか。

なおかつ梅木自身も自分を消費するために必死であったのではないか、と思う。それはなぜか。消費者によってすべて削ぎおとされた結果輪郭が顕になる、将来出会うべき己を浪費するためである。

わたしはずっと、自分自身に逢いたいと思っておりました。(中略)誰もわたしの本質にふれたものはいなくて、それは他人を責めるようなことではなく、自分自身もまた、自分を知ることができずにいました。

(「ゴージャス」)

しかし梅木は引退に及んで、とうとう自分は孤独であることに思い至り、アイドル時代の歌を口ずさむのである。

 

ではアイドルを消費する私たちはどうすべきか?  と考えてしまう。

私自身は、基本的なスタンスとして、サブスクリプションの配信を望んではいない。音楽はいまや国境を越えて手に入るものとなった。何回再生されたか、はヒットの偉大な(!)指標になっている。

もちろん、彼ら自身が「世界に届けたい」という願望を持っているから、解禁されたら諸手をあげて喜びたい。けれど進んで賛成しよう、とは思わない。

 

音楽の消費のされかたも時代によって変わってきた。サブスクリプションが好まれる、好まれない、という話以前に、メディアの変化によって音楽は短くなってきている。

www.tbsradio.jp

上記から一部引いてくる。

サブスクの音楽配信サービスだと、最初の5秒、曲が始まって最初の5秒で24%が離脱する。つまり聞いてる人の1/4は5秒で他の曲に移っちゃう。
30秒で35%が離脱。最後まで辿り着く人は50%。
というのデータが出ているんですよね。

こういう情報を数字で実際見ちゃうとサビから始めてくださいってお願いする気持ちももうすごいよくわかる笑

(中略)メディアがそういう風に CD からダウンロードに変わり、ダウンロードからサブスク、ストリーミングっていう風にメディアが変化してゆくタイミングで、イントロがどんどん短くなるというのは実は今に始まった話ではないんですね。
アナログレコードから CD にメディアが変わった時も同じような状況があったんです。
CD が出始めた最初の頃、90 年代の初期っていうのはイントロ⻑い曲でまだ結構多くて。(中略)

レコードとかカセットで、早送りとか頭出しとかができない時代はアルバムの流れに沿って 1 曲 1 曲、大切に聞く。
その曲の世界観に入るための導入部、まさに Introduction をすごく大切にするっていう文化が 90 年代初期はまだ多分残っていたんでしょう。

 

ただ90年代初期にはまだあったという、「その曲の世界観に入るための導入部、まさに Introduction をすごく大切にするっていう文化」、これは浪費ではないか?

私たちはメディアによって浪費から消費に舵を切らされている。浪費する贅沢の時代よりも、より多く、より早くを求める動きに乗っている。

ならば私はその動きを観察したい。そして私が失った、喪う以前に手に入れられなくなったものはなにかを考えたい。

 

また、ここまで書いて一つ思ったことがある。

SixTONESの今回のアルバム『CITY』で、盤によって曲順が異なるという試みは、「レコードとかカセットで、早送りとか頭出しとかができない時代はアルバムの流れに沿って 1 曲 1 曲、大切に聞く」という音楽とのつきあい方を復古させたいのではないか。同時にイントロが短い曲がいくつも配置されていることは意識しなければならない。

つまり、過去の音楽の在り方を切望しながらも今の音楽の有り様も取り入れ、単なる消費ではなく、浪費と消費の入り交じった状態をまず目指しているのではないか?

 

もちろん、それが私の勘違いであって、彼ら自身が消費財としての在り方を望むのであれば、それはそれで良いのだ。ならば私も消費者としてそれに付き合う。

ただ、そのやり方ではいつか疲弊する日が来てしまうのではないか。消費財も消費者も共倒れするのは避けたい。

できることならば、消費者である私を眺める浪費家になる、ということを実践できるようになりたいものだ。