Pray through music

すとーんずにはまった元バンギャの雑記。

アイドルを浪費する

ある一派はこう主張する。バーナム博物館のさまざまな驚異はみな、一見いかにも機械的に説明できそうに見えるよう、計算づくの展示がなされているのだ、と。それに誘われて説明を企ててみると、一応納得は行くもののやはりいまひとつしっくり来ない説明しか思いつかない。かくしてこちらの好奇心と驚嘆の念はなおいっそう高まる、というわけである。

私たちのことを十分に理解していない人々は、バーナム博物館とは一種の逃避手段ではないか、と非難したりする。表面的な意味においては、まったくその通りである。バーナム博物館のなかに入るとき、私たちは、私たちを外の世界に結びつけているすべての絆から物理的に解放され、日光と死の領域をしばしば逃れることができるのだから。苦悩や悲しみからの息抜きを求めて私たちが博物館を訪れることも少なくない。だが、ひたすら外の生活のつらさを忘れるために私たちが博物館へ逃げ込むのだと決めつけるのは早計というものである。結局のところ私たちはもう子供ではないのだし、どこへ行こうと自らに課された重荷を背負いつづけているのだ。それに、そういった重荷を忘れることなど不可能だという事実はひとまず措くとしても、私たちが博物館を訪れるのは、悲しかったり不満があったりするときだけではないことも指摘しておきたい。むしろ安らいだ心、内なる充足とともに博物館にやって来ることの方がはるかに多いのである。

上記はミルハウザー『バーナム博物館』(白水社柴田元幸訳、2002年発行『バーナム博物館』所収)の引用。

アイドルにも似たところがあるように思う。

 

このブログ記事は、先日見たSixTONESへの言及や、ワイドショーでなされていた質問への、私の感じた違和を解消するために書く記事です。

 

 

アイドルは贋物か、半人前か?

先日流れてきたツイートに、こんな旨のことが書かれていた。SixTONESはある意味でアイドルの枠組みを拒絶していて、歌唱力やアーティスト性がずば抜けていると。

ある意味で、の比重がどの程度か量りかねるが、ここから透けて見えるのは、アイドルは一段低いものである、という意識だ。

 

日経エンタテインメント』2022年4月号において、大我さんはこう語る。

オーディション発のグループを見ると、クオリティーがすごいなと思うし、素直にリスペクトもします。〈中略〉でも、今からでも磨ける余地が絶対にあると思っていて。僕らには僕らのアイドル性やパフォーマンスがあるはずですから。

かなえたいことはたくさんありますけど(笑)、生意気言わせてもらうと、はやりとか業界の常識に振り回されず、自分を見失わずに仕事したい。

慎太郎君はこう言及する。

このコロナ禍で、エンタメの必要性や力というのを実感しました。人と人のつながりがあれば、朽ちるものではないんだなという自信がついた。その中でもジャニーズのエンタメ、ジャニーさんが俺らに与えたものって、本当にすごいんだなって。〈中略〉ジャニーズのこの独特の”家族感”は、他にはないものですし、誇りに思いますね。

彼らはジャニーズのアイドルであることを誇りに思いこそすれ、卑屈になることはない。

 

私がツイートで想起したのは、小説や漫画が市民権を得はじめたころの扱われ方である。それらが登場したころ、それらは女子どものための低俗な慰みとして扱われていた。すなわち、文化を持たない者のための愉しみであると。

何故それを低俗と見るか。日本の小説の誕生にも原因を求めても良いだろう。小説、Novelの概念は、鎖国が終わって日本に輸入されたもののひとつである。欧米列強の真似事のひとつである。

所詮想像にしか過ぎないことであるが、Novelを低く見る一つには未開の地への嫌悪、一つには劣等感があったのではないか。

開国によって、今までの国体が否定され、どこともつかない未開の地の文化が流入してくる。社会構造に変革を迫って来る。今までの生活を一新せよと脅される。そうしたことに対する忌避感。

小説を輸入する試みは、当時のエリートによって行われたはずだ。何か自分たちには理解できない、自分たちにとって未開の地の文化が、エリート階級には理解できるらしい。そうした現象への劣等感。

自分たちに嫌悪感と劣等感を抱かせるものを一段低く見られていた女・子どもの娯楽とすることで、溜飲を下げていたのではないか。

 

マッチョイズムな感性(と簡単に言いたくはない)と、ある種の捻れた感情。アイドル性とアーティスト性に戻ってみると、同じ構造が浮かび上がるような気もする。

アーティストは自分たちに相応しい・尊いものであるが、女・子どもに好まれる/女・子どもの飯事じみたアイドルはそうではないのであると。

 

こう捉えられる原因に、心当たりがないわけでもない。”アイドル”の寿命は、一般的に短いのである。例えば女性アイドルグループの場合、グループが存続していても、”卒業”制度がある。概ね30歳を迎える前に、多くは20代前半までに、グループから旅立っていく。組織の活性化という側面もあろうが、それよりも、女性アイドルは特に”若さ”に力点が置かれているということがあるだろう。

今でこそ女性の女性アイドルファンも多いが、やはり中心は男性ファンである。男性に向け発信するのであれば、若さがアピールされなければならない。実際はどうであれ、見かけ上は彼らよりも弱弱しい存在であらねばならない。

もしそうではないのであれば、何故彼女たちは制服やメイド服を模した衣装を着なくてはならないのか? あるいは明らかに運動に向いていないであろうひらひらしたスカートを穿かなくてはならないのか?

(もちろん彼女たち自身がそれを着たい、という側面もあろうが)

 

反転して、男性アイドル、特にジャニーズである。SMAPの登場まで、男性アイドルの寿命も決して長いとは言えなかった。しかし、今ではSexy ZoneKis-My-Ft2も10周年を超え、KAT-TUNもHey!Say!JUMPも15周年を超えた。決して短命とは言えなくなった。しかも女性アイドルグループのように、メンバーが入れ替わることはない。脱退はあるが卒業はない。誰かが脱退しても、欠員補充はない。

そして、彼らは庇護欲を掻き立てる一面を持っていないわけではないが、断じて私たちより下である、と捉えることはできないのだ。

 

女性アイドルの”卒業”制度。私の母世代には、就職はあくまで結婚するまでの腰掛けである、という感覚もあったと聞く。さらに時代を遡っていけば、女学校に通う学生は、卒業までに結婚相手が決まっている、早ければ卒業を待たずして籍を入れ退学する、なんて時代もあったという。

”アイドル”という言葉の場には、結婚し一人前になるまでの短いモラトリアムの期間である、という意識も働いているのである。そしてその”一人前”になる、には、一人の男性に見初められ、家庭の中に隠される、というところが付与されている。

(これ書いてて自分で気分悪くなってきた……笑)

 

何か、「アイドルを拒み、高いアーティスト性を有している」という言説には、彼らは女性ではないものの、SixTONESをトロフィーワイフのように扱いたいという願望も感じ取ってしまう。

すなわち、優れた俺が手に入れ、他者にその存在を自慢できるトロフィー。それは高級な”アーティスト”である必要があり、低俗な”アイドル”であってはいけないのである。

 

エンターテイメントとコスパ、贅沢

2月末に放映されたワイドショーで、気になる質問があった。

「映画やドラマは1.5倍速で見る。〇か×か」

私はこの質問を腹立たしく思うと同時に、これが世相を反映した質問であると、悲しくなりもした。大我さんの表情がわずかに歪んだのを、私はたぶん忘れない。

 

情報過多の社会で博打をうつ

ファスト映画をアップロードしていた人が逮捕されたのは記憶に新しい。

また、出版大手4社(小学館集英社講談社KADOKAWA)が海賊版サイトにサービス提供しているCDN事業者を提訴したのも、最近の大きなトピックスだ。

現代は情報過多社会であると考える人の割合は、2018年時点で8割を超えている。

www.nhk.or.jp

 その中でエンターテイメントを消費しようとすれば、お金も時間も膨大にかかる。でもそんな時間はないから映画やドラマは1.5倍速で見なくてはならないし、お金だって有限だから、無料で済ませてしまいたい。仕方のないことだ。

 

……それは本当か?

 

エンターテイメントのひとつの側面は、他者との会話のツールになりうるということ。そして現代はその他者でさえ、コストパフォーマンスが優れているかどうかによってジャッジされていることを含めて考えなくてはならない。

『「人それぞれ」がさみしい』(石田光規、ちくまプリマー新書、2022)に、下記の指摘がある。

(引用者註;現代は感情によるつながりで補強された世界である、として)感情に補強されたつながりは、それほど強いものにはなりません。〈中略〉あるつながりを手放さないためには、相手の感情を「よい」ままで維持しなければなりません。大事な相手とつながりつづけるためには、関係からマイナスの要素を徹底して排除する必要があるのです。

最近の大学生には、自らの友人関係を「コスパで選ぶ」と堂々と話す人もいます。つまり、コストに見合ったパフォーマンスを発揮できる人とのみ付き合うということです。とても合理的な考え方です。〈中略〉しかし、人間関係のコスパ化が進んだ社会では、自らもコストとして切り離されてしまうリスクを絶えず背負うこと、誰かがコストとして切り離されていることを忘れてほしくないものです。

ある程度のところまで、同感である。

目の前にいる人間に気に入らないことがあれば、シャットダウンすればいい。インターネット上にいる意見のあいそうな人物のみをフォローすれば良い。嫌な感情を引き起こす人は、指先ひとつでブロックできる。

もちろん、自分では気が合うと思っていた相手から、なにかの弾みにブロックされてしまうこともある。致し方ない。自分だってそうしてきたのだから、とは人間は思えない。

何で? 私が悪いことしちゃった? 何かしちゃったなら理由を聞きたい。けれどそれはもう叶わない。しんどい。

だから、エンターテイメントについて言及するときも、当たり障りのない言葉で評価するのが最適だ。当たり障りのない、1.5倍速で見られても問題ないエンターテイメントを作り出すのが、最もコストパフォーマンスがよいだろう。

 

だがしかし、それはエンターテイメントへの侮辱になってしまう。エンターテイメントは、現代的な意味でコストパフォーマンスが悪いものである。

作り手の側に立てば、構想を練って制作をし完成品が世に出るまで、それが受け入れられるかどうかわからない博打だ。受け取り手からすれば、それを手にするまでどんなものであるかわからないのだから、これも博打だ。

 

けれど、その博打の中で自分に合っているものを見つけられるからこそ愉しいのであって、賭けをせずに手に入れたものは存外すぐに飽きてしまうものだ。

 

贅沢=浪費≠消費

2021年3月のラジオにおいて、ジェシーくんは好きな曲の1つに小田和正さん『たしかなこと』をあげていた。

SixTONES・ジェシー、思い出の楽曲を明かす。「歌詞をかみしめて泣きたいとき」に聴くのは? | J-WAVE NEWS

歌詞をかみしめて泣きたいときは、小田和正さんの『たしかなこと』とか。声にやられます。

噛みしめる行為には、時間が必要である。

歌詞を咀嚼しないことには始まらない。表面上の情報だけを受けとるのではなく、背景にあるものを想像し、自分に引き付け、インストールする。

ゆったりとしたそれは非常に贅沢な時間だ。ファストとは相反する流れをつくらねば、噛みしめることは難しい。

 

少し前に流行した速読のメリット・デメリットにあい通じるものがある。

速読は確かに、多くの情報に触れることが可能になる。しかし反面、物事の理解力が落ちるというデメリットがある。

「読むのが遅い」はデメリットではない。読書体験を充実させる「遅読家」のためのおすすめ読書法 - STUDY HACKER|これからの学びを考える、勉強法のハッキングメディア

1987年にビクトリア大学のマイケル・マーソン教授が行った実験では、文章を読むスピードが遅い人ほどその内容を十分に理解していることが示唆されました。ゆっくりと読書をする場合ですと、読み飛ばさずにすべての文章を読むことになりますから、内容の理解により時間をかけられるということですね。そしてそれは読んだ内容についての幅広い解釈、中身の吟味といった、本を“味わう”ことにもつながっていきます。(以上、上記記事より引用)

遅読が文章を味わう行為であることを援用すると、現代は物事を味わうことを捨て、その分情報攻勢に身を任せようとする社会とも言えるのではないか。情報の駆け巡るスピードは速く、Twitterを数日、いや、数時間離れただけでも乗り遅れたような気持にさせられる。

十分に味わうという行為ができないままに次の情報が流れてくる。確かに得たはずの情報を思い出しづらくなっている。そもそも思い出せるほど触れているか、怪しくなってくる。

 

情報に溢れたこの時代、ものに溢れたこの時代、いくらでも贅沢ができる。欲しいものは指先ひとつで手に入り、細分化された嗜好にあうものを手に入れることができる。

それは本当に贅沢なのだろうか?

國分功一朗『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫、2021)に浪費と消費についての言及がある。

すなわち、ここでいう浪費は必要を超えて物を受け取ることであり、消費は観念や記号を受け取ることである。そして贅沢とは浪費のことを指す、と。浪費には限界があり、消費には限界がない。

この考え方を知ったとき、買い物依存症も消費に限界がないからこそ引き起こされるのではないだろうかと思った。

その「物」自体が欲しいのではなく、「高級品」や「流行りもの」という概念、あるいは「それらを買っている」という行動に意味を見出す。そのものに価値があるのではなく、その物に付された概念に価値がある。

しかし「高級品」「流行りもの」という概念は効果が持続するものではない。高級品には廉価な模造品も製造されるし、そもそも大量生産が可能になれば値崩れする。おととしの流行を私は思い出せるだろうか?

消費は贅沢ではなく、「買わなくてはならない」という強迫観念に駆られて行われるもので、手に入れた後のことを考えない。だから、消費にかけるスピードはできるだけ短い方が良い。

浪費は「手に入れて味わいたい」と、自分のもとに来た後のことに力点がある。味わうためにはよく咀嚼する必要がある。だから、浪費には時間がかかる。

 

エンターテイメントを消費と捉えるか、浪費と捉えるか。インタビュアーとSixTONESの間には、その齟齬があったのではないか。

 

アイドルは浪費されたいのではないか

 

目新しさはすぐに飽きるもの
次から次へ猿真似信者が
ひとまずその場を大分埋めたね
しばらくして何してるだろう

 

星屑の木箱 中身は何でしょう
価値も分からない奴が値札つける
逆らう者には花束をあげよう
従う者には紙とペンをあげよう

(『僕らの使い捨て音楽』LIPHLICH)

明らかに流行とその模造品のことを言っているこの曲が大好きだ。「流行」「高級品」という概念を買うために値札をつける人たちには紙とペン。小切手を書くためだろうか?  花束はお別れ。

私がSixTONESのことを考えるとき、かなりの頻度でこの曲が頭の中に流れる。

音楽は購入して終わり、視聴して終わりではなく、CDを購入したあと、ライブに行ったあともずっと続く。

 

大我さんは雑誌の連載でこう述べた。

ライブではスタッフさんが照明を当ててくれて、ファンの人たちの応援でアドレナリンが出ているから、そこで輝くのは当然のこと。ライブが終わってからも、見てくれた人の心のなかで輝き続けられる存在でありたいね。

(「すとーんずのれんさい vol.135」『週刊TVガイド』2022年3月11日号)

「見てくれた人の中で輝き続け」る。その日のライブを何度も何度も反芻し、咀嚼しなければ、心の中にあるアイドルは輝かない。時間をかけて、記憶の形が変わっていくことまで含めて、参戦した誰かの裡にあり続けること。

それは消費では不可能だ。浪費は必要を超えて物を受け取ることであり、消費は観念や記号を受け取ること、ということを横に置いても、消費は「(ものなどを)使ってなくすこと」、浪費は「(金銭や時間を)必要のないことに使うこと」である。

極端に言ってしまえば、エンターテイメントは、それで生計を立てている人は別として、ほとんどの場合では生命維持活動に関わらないものだ。

けれど人生に花を添える。使ってなくならないものを得ることができる。何度でも味わえる。

 

アイドルは、だから、浪費されるためにその身を晒しているのではないか。

 

その身をさらけ出しているアイドルが他の芸能人より一段高いことも一段低いこともないと、私は思う。ただどこに軸足があるかが違うだけで。

そして充分に浪費されるためにさまざまな側面を提供し、思いを巡らす時間をもたらしているのではないか、とぼんやり思った。

 

 

私たちは、何度もくり返しバーナム博物館へ戻ってゆく。〈中略〉ようこそ、バーナム博物館へ!  それで十分なのだ、私たちにとっては。それでほとんど十分なのだ。

ミルハウザー『バーナム博物館』)