Pray through music

すとーんずにはまった元バンギャの雑記。

百年待っていてください。金曜ロードショー『風立ちぬ』を観た。

金曜ロードショーで『風立ちぬ』を放送していたので観ました。

メインテーマの、トランペットの音を聴きたかったから。

 

私の心に残ったのは、流れる時間の鷹揚さでした。

菜穂子が結核を必ず治す、と言ったときの「百年だって待つ」という二郎のことば。

カストルプと菜穂子の父との会食のシーン。

 

思えば戦争へと進み、そして戦局の悪化があり、敗戦、という映画の時代背景がおおらかな筈もないにも関わらず。

実際映画には特高ヒットラーの存在、海軍に協力せざるを得ない現実が描かれている。

けれど、どこかゆったりとした、高潔な時間の流れを感じたのです。

 

きっとジリジリとした戦局の悪化というところではないところで、時間が流れている。

菜穂子がただそこにいる、二郎がただそこにいる、その事実が彼らを彼らの過ごした"現代"から切り離したのでしょう。

 

黒川夫妻の肝の据わりかたも、時間を静謐なものにする条件だったでしょう。

いきなり婚約者と連れ立って、すぐにでも結婚しようとする勢い込んだ若者の決意を前に、その意気を形にしてやろうとする。

 

もしかしたらおおらかさとは、胆力のことを言うのかもしれない、と思いました。

私が引き受ける。何もかも。

 

百年待つ。待たせるあなたの命を、私が引き受ける。

そういった度量が鷹揚さを産み出しているのではないかと。

 

そして、これをいうと反発もあるかと思うのですが、相手を引き受ける、ということはある種の身勝手さも含むのだと思いました。

 

離れとはいえ、結核患者の菜穂子を連れてきて生活する二郎は明らかに黒川夫妻の健康に気を回せていないし、特高から二郎を匿う黒川氏は「会社の役に立つ限りは」と彼を庇うための条件を口にする。

 

この身勝手さを赦しあうことが、他者の尊重なのかもしれません。

 

とはいえ勿論、すべてが身勝手な人間は赦されないでしょう。会社においてその才を発揮して尽くしている二郎があってこそ二郎の身勝手は赦される。黒川氏の公私を混同させまいとする姿勢が見えかくれするから赦される。

 

このおおらかさを自分はどこにやったのだろうと思います。

そういえば、映画から話はそれますが、好きな曲の1つにメガマソ『ビューティフルガール』があります。

どれだけ長くて、虚ろな時間の中、
あなたは私を見守ってくれたかしら。

今の弱さ、私が庇う番で。

「ごめんね、強くなくって」あなたが揺らいでも、

着いていく、誰にも邪魔させない。

「無理だよ、自分なんて」あなたが動けずに

いるなら、背負ってでも連れて行く。

 

相手を引き受ける愛のある種の身勝手さを感じます。

けれど相手が最終的に救われるのであれば、一種崇高なものになるような気もするのです。

 

つまり、身勝手さと崇高さは共存する。というか、身勝手さから崇高さが発生することもある。

 

菜穂子はうつくしいところのみを見せたいという理由で前置きもなく療養所に姿を消してしまいますが、それでも二郎は百年待つのでしょう。

菜穂子を引き受けたのは自分だから。

高僧のように思索に耽りながら、菜穂子を百年待つ。夢に出てきたカプローニ伯爵は"二郎にとってのメフィストフェレス"である、と宮崎駿監督が口にしています。悔恨と満たされない欲望を夢に見る二郎は、確かにメフィストフェレスを召喚したのかもしれません。

 

ファウストは幸福な時間が留まってくれることを祈りますが、二郎は菜穂子に「生きて」と請われます。

 

二郎の夢の中なのだから、実際に菜穂子がそう思っているかはわからない。けれど二郎は、菜穂子の思いを己のものとしなければならない。だからきっと、生きて「百年」が流れるのを待つのでしょう。