Pray through music

すとーんずにはまった元バンギャの雑記。

彼らは誰かにとってのジーザス。ー「アトリエの前で」を受けて

東海ウォーカーの連載、松村北斗さんの「アトリエの前で」を読みました。

私はこのエッセーから、『ジーザス・クライスト・スーパースター』を思い出しています。
劇団四季でも定番となっている、ミュージカルの金字塔。
(下記、劇団四季ジーザス・クライスト・スーパースター』のストーリーURL)
https://www.shiki.jp/applause/jesus/story/index.html
(こちらはシアターオーブ。ことし全幕英語歌唱で公演があるらしい)
https://theatre-orb.com/s/lineup/21_jcs/

ジーザスはそのカリスマ性で民衆の人気を得ていきますが、側近のユダはそれを心配しています。

民衆の期待は大きすぎる。彼は奇跡を起こす存在として人々に求められ過ぎた。民衆がジーザスが奇跡の存在ではないと気づいたら、手のひらを返してジーザスを押し潰そうとする。

ユダは忠告します。

〈every word You say today, is twisted round some other way
And they'll hurt You if they think You've lied〉

〈あなたが発するすべてのことばは、ねじ曲げられて解釈されてしまっている。
そして群衆があなたのことばを嘘だと思い出したら、彼らはあなたを害するでしょう〉

〈Listen, Jesus to the warning I give
Please remember that I want us to live
But it's sad to see our chances weakening with every hour

All Your followers are blind, too much heaven on their minds
It was beautiful but now it's sour, yes it's all gone sour
God Jesus, it's all gone sour〉

ジーザス、聞いてくれ、これは警告なんだ。思い出してくれ俺たちは生きたいんだ
でも死までの時間が刻一刻と迫ってきてしまっている!

あなたの信者はみな盲目だ、彼らが望む天国のことしか考えてない。
昔はそりゃうつくしいものだったかもしれない、でももう駄目だ、ジーザス、もう駄目になってしまったんだよ〉


そのころ、エルサレムでは司教たちがあまりにも影響力の大きくなったジーザスの処刑を決定し……。

まあざっくりこういう話なのですが、ああ、私たちとアイドルに似ていると感じて。


そもそもアイドルの語源が「idol」、偶像なのです。人は偶像に救いを求める。
それ自体は責められたものではありません。

けれど偶像それ自体は私たちを救うわけではない。私たちがたまたま偶像を見て、必然性を感じて救われた気になって、そこで立ち上がって次の行動に移っていく。
偶像はあくまで、人間が自分の行動を決定するための補助輪みたいなものです。

私もSixTONESに救われてる。
でもそれは彼らが与えてくれたことばや音楽やパフォーマンスを自分なりに解釈して、昇華しようとしているだけに過ぎない。

彼らは「偶像」として尊敬される存在ではありますが、宗教の対象ではない。
あくまで人間です。

SixTONESYouTubeチャンネル『春の体力測定』で樹くんが言っていた、「以上! 人間でしたー!」をふっと思い出します。

https://youtu.be/pAPeqNdZ-eo

からだが固い。柔らかい。握力がある。ない。跳躍力がある。ない。ぜんぶ生き物として、それまでの生活や個体差によって形付けられたものです。


ジーザス・クライスト・スーパースター』に戻ると、ジーザスはあくまで神の教えを説こうとしていた人物です。しかし民衆は、自分たちが置かれた状況から救いだしてくれる存在だと思い込み、救いを欲する。
ジーザスと民衆の目的はズレてしまっているわけです。


今回「アトリエの前で」で北斗さんの語ったエピソードと、何か似ていませんか。
彼はあくまでパフォーマンスで魅せたい。けれど公表していない情報を流す人々は、そしてその情報をもとにアクションを起こす人は、彼が伝えたいパフォーマンスではなくて、自分の欲望を満たすために彼を求める。

ジーザスは奇跡を起こしてくれないと知った民衆は最後には〈ジーザスを殺せ!鞭を打て!〉と大合唱。
でも、処刑人となるピラトは気づくわけです。〈彼を殺す理由がない〉と。

ジーザスは結局、最後に磔にされてしまうのですが、ここでは良心の呵責に苛まれて死んだはずのユダが歌います。

〈Do you think you’re what they say you are?〉
あなた、つまりジーザスは自分のことを、群衆が口々に言うような人間だと思っているのか?と。

〈Tell me what you think about your friends at the top.
Now who'd you think besides yourself was the pick of the crop?
Buddha, was he where it's at? Is he where you are?
Could Mohammed move a mountain, or was that just PR? 〉

〈あなたの友達について教えてくれ、誰があなたの隣に並び立つにふさわしいんだ?
ブッダか?たぶんそこにブッダがいるんじゃないか?
モハメッドは山を動かしたって言ってたがありゃただのPRか?〉


〈Did you mean to die like that? Was that a mistake, or
Did you know your messy death would be a record breaker?〉

〈あなたの死に方はどういう意味があった?
あれは失敗だったのか、それとも
あの無残な死に様が記録やぶりだってわかってたのか?〉


ジーザスをひとりの人間と見ていたはずのユダがこんなことを語りかける。
死んだはずのユダがこうやって皮肉る、という状況を考えると、ジーザスが死の間際に民衆との認識のズレに思い巡らしているともとれるわけで。

どこまで行っても彼らは人間なのです。
私たちの欲望を満たす装置ではない。


でも私たちは、人の見せたくないものを暴く残虐性を誰もが手のひらに収まるサイズで持っている。
勝手に神と決めつけて、勝手に期待を抱き、近づこうとする。
あるいは勝手に裏切られたと思って手のひらを返す。

彼らは「偶像」であることを選んだけれど、それはすなわち神になることを選んだわけじゃない。そもそも神様だって、蝋で翼をつくったイーカロスを、太陽に近づきすぎている、と墜落させるわけで。
近づきすぎてはいけない。

私たちは見たいものしか見ない。見えない。毎日、毎日。
自戒を込めて。自分が妄信的になっていないか点検して、一定の距離をとりながら、「偶像」は自分の人生とは交わらないって、自分が勝手に信じてるだけなのだ、と思って生きていきたいのです。