Pray through music

すとーんずにはまった元バンギャの雑記。

アイドルである彼らの共犯者。演劇論から考える。

ジェシーくんの舞台も、樹くんのドリボも、どちらもおめでとうございます。

 

7/10のSixTONESANNを聴いていて、演劇やライブについてふっと思ったことがあったので覚書としてこの記事をあげます。

珍しくなんかの役に立つと良いなあ。と思ってます。

※私が大学で学んだことをベースに書いているので、演劇の要素として他の切り方もあるとは知っています。

 

演劇の三要素など

みなさんは演劇を観に行くことはありますか?  私はそんなに行く方ではなかったですし、緊急事態宣言以降はぱったり行くのをやめてしまいましたが、また機会があれば行きたいと思う舞台がいくつかあります。

 

演劇には、3つの要素が必要であると言われます。(文献によっては、戯曲ではなく劇場が入ることも)

  1. 俳優
  2. 戯曲(脚本)
  3. 観客

俳優と戯曲は言わずもがな。では観客はなんのために必要なのでしょう。

 

例えばその場に観客がいなければ、役者は何度でも台詞を間違えることができます。そこで行うはずではなかったアクションをしてやり直すこともできます。

しかし、観客がいる限り、そのようなことはできない。想定外の事態が生起したときに俳優がどのように対応するか、その一回性を観るのまで含めて、私たちは演劇に参加しています。

 

その意味で、映画やテレビドラマは演劇とは異なります。

その場で生まれた反応に即応すること。脚本はあっても、即興の要素が多少含まれるのが演劇であります。

 

音楽のライブは映画/演劇どちらに近接するかと言えば、演劇だと考えます。

 

例えば歌詞が飛んでしまっても、衣装の一部にトラブルがあっても、演者はそこから離れることができません。

構成の仕方も極めて演劇的だと感じます。

 

安部公房椎名麟三武田泰淳福田恆存は対談の中で、演劇と映画・小説の違いについて下記のように語っています。

(前略)

福田:小説の発想と戯曲の発想と違うんだけれども、一番大きな違いっていうのは、椎名さんがいったように(※引用者註/「自由の彼方で」という小説を芝居にしたときの苦労)、個人の意識は小説は書いて行く。戯曲の場合は外からしか書けない、視覚に訴えるものしか書けない、ということが一つ。もう一つは、時間の展開の仕方が根本的に違う。(中略)戯曲は絶えず現在の形で時間が展開する。もちろん過去には戻れない。(中略)絶えず現在現在で進む。その二つが小説と一番違う点じゃないか。(中略)ぼくは映画と戯曲は根本的に違うと思う。むしろまだ小説と映画の方が近い。

安部:映画と戯曲の相違点では、時間よりもむしろ、空間の処理の仕方だね。時間的には戯曲とシナリオが近い、空間的に見れば小説とシナリオが近い。戯曲の空間的特徴としては、第一にむろんあの舞台の制約だけど、もう一つ、そこに現わされている対象が、完全に意識的に再構成されたもの以外はないという点ですね、全部一応人間の手がかかっている……。反対に、映画や小説の場合は偶然が自由に入り込んでかまわない、というよりそれが特徴だ。

(中略)

武田:芝居は不自由だからね、空間的にも時間的にも。

〈「戯曲をなぜ書くか」初出『新劇』1955年9月号、『安部公房全集05』(新潮社1997年12月発行)より引用〉

 

この不自由性を了解して、私たちは演劇やコンサートを観に行く。

そうした要素を折り込んで観てリアクションするのが、観客の役目です。

(もちろん、コンサートと演劇鑑賞ではリアクションの仕方も異なるので、一概におなじとは言えないのですが。)

 

配信と会場と

さて、このコロナ禍において、いくつもの配信ライブが行われました。

配信ライブは演劇と映画、どちらに近いでしょうか?

 

私はどちらにも近くないと思います。

観客を想定し、ノンストップで行われるという点においては演劇的ですが、その場において観客は実在しません。

そして、映画のように何度もリテイクを出せるわけではありません。

 

強いて言うなら、生放送のバラエティー

画面越しの観客に向かってアクションが行われ、ショーを止めることもできませんが、実際の観客はそこにいないので、場の空気は観客によって醸成されることはありません。

 

そして、何より大きいのは、配信では秘密がつくりがたいこと

演劇は閉じられた劇場の中で行われるのに対して、配信は世界中どこにいても、環境さえ整っていれば観ることができます。

つまり、会場にいた人間のみに与えられるサプライズは実行しがたく、またそれを広める人間の「言いたい!」という欲求や、そこに反応して「次こそは……!」「行けば良かった……!!」という欲求を掻き立てづらい。

 

また、劇場はブザーが響き、客席が暗くなることによって、それまでの時間と演劇に没入する時間とが区切られますが、配信ではそれらは区切られません。

自発的に部屋を暗くすることで、擬似的にそれまでの時間との区切りをつくることはできますが。

 

ただ、擬似的時間と空間は、あくまで疑似です。部屋のそとからは救急車のサイレンが鳴り響いているのが聴こえるかもしれない。なにかつまみながら観ることができる。隣にいる友人に話しかけながらの観劇も可能である。

 

音楽や演劇の普及という点においては効果的であるものの、観客を没入させ、共犯者をつくるという点においては、やはり劇空間が必要なのではないかと考えます。

 

秘密の造成によって起きること

先ほど、観客のことを「共犯者」と書きました。

なぜ観客は共犯者なのか。

 

それは、配信には秘密がつくりづらいことの裏返しで、劇場での観劇や、ライブ会場でのコンサートへの参加は、その場にいた人間のみに与えられる秘密があるからです。

 

例えば、カメラが入っていなければ、演者はどんな仕草をしたか?  どんな表情だったか?  どんなアドリブをしたか?

その場に行けなかった人間は、何もかも、知り得ない。

いくらその後にSNSなどで情報が流れてこようが、観客ではない人間は、その時間に起きたことを実感として手に入れられることはないのです。 

 

そして、秘密を共有した観客はどうなるか。

閉じた、不自由な世界で演者の発した言葉や動きを受け取ることで、その価値の高さをより強く認識する。

それも、日常から隔絶されていると感じる度合いが大きければ大きいほど、認識の度合いも大きくなる

 

これは個人的な経験から言うのですが、ヴィジュアル系のライブに行った時も、対バンよりもワンマンの方が没入性が高く、舞台に集中していたように思います。

それは、空間・時間がすべてたった一つのバンドとその観客のためだけにあるから

対バンではおおよそ30分~40分のステージが終わるごとに明転し、観客の出入りがあり、飲み物をドリンクチケットと交換する声が聞こえる。ビールの匂いがする。座り込んでメイクを直す人が見える。マイナーバンドであれば、物販にさっきまでステージで楽器を奏でていたメンバーが立っている。

現実が非現実を飲み込んでしまう感覚が勝ってしまうことがままありました。

 

ワンマンライブの場合、対バンとは反対で、演出上必要でなければ、基本的にはフロアは暗転したままです。

すると、なにが起きるか。

私=観客と、ステージ上で光を浴びる演者のみに集中できる。

あるいは私の存在すら、その場から消えていく。モッシュやヘドバンをしている間の観客は、個体ではなく、集合体として蠢く。

ステージ上で起きていることに反応しながら、自分に集中し、ついに自我をその場の論理に同一化させ始める。

 

ワンマンライブが終わると、明転して現実へと引き戻されますが、少なくとも会場にいる間は非現実と現実の狭間を彷徨います。

 

この現実ー非現実の狭間にこそ、私たちが演劇鑑賞に、コンサートに足を運ぶ理由があるのではないかと思うのです。

 

アイドル=幻想の共犯者

 

ここまで演劇やヴィジュアル系のライブに惹き付けて、話を進めてきました。

ここまで話してきた内容はすべて、アイドルのライブにも敷衍できることです。

 

つまり、ライブには演劇の3つの要素が必要である。

  1. 俳優=アイドル
  2. 戯曲(脚本)=セットリスト
  3. 観客=ファン

 

その時間は現在進行形でしか成立しない。後戻りできない。一回性の要素が大きい。

そして、没入できる秘密の空間でなければならない。

もちろんここまでで、十二分に私がアイドルを好む理由は説明できます。

 

そしてもう1つ、アイドルがファンに向けるものが、私たちをさらに一歩踏み込んだ共犯者にさせる気がします。

所謂ファンサ。(MCも広義のファンサと言って良い気がします)

自分のファンと認識した相手に反応して笑いかけたりことばをかけたりすること。

その瞬間、非現実の住民であるアイドルが、自分を非現実の住民に引き上げてくれる。

このときファンは、フロアにいる個体でも集合体でもなく、アイドルが見せる幻想の住民になります。

 

しかし、ライブが終われば、わずかばかり現実ー非現実を彷徨した後、いつもの生活に戻らざるを得ない。

 

この幻想は本当だったのだろうか。確実に自分の体験としてある。そしてそれがどのように行われるのか、観客である私と、アイドルである演者しか知らない。

その秘密の共有によって、ファンは共犯者としての絆をより強く感じます。

 

そしてアイドルの共犯者である私たちは、さらなる幻想を追い求めて、再びライブに足を運ぶのではないかと思うのです。