Pray through music

すとーんずにはまった元バンギャの雑記。

贅沢をしてますか?『暇と退屈の倫理学』( 國分功一郎)とかその他

ぐるぐる思考してまとまらないけどとりあえず……。

 

浪費とは何か? 浪費とは、必要を超えて物を受け取ること、吸収することである。(中略)浪費は満足をもたらす。理由は簡単だ。物を受け取ること、吸収することには限界があるからである。(中略)
しかし消費はそうではない。消費は止まらない。消費には限界がない。消費はけっして満足をもたらさない。(中略)人は物に付与された観念や意味を消費するのである。
(以上、『暇と退屈の倫理学國分功一郎新潮文庫、2022.1発行)

思わず膝を打った。
配信を求める、コラボを求める、関係性を求める、……私は消費の環のなかに身を置いているのだと。

 

思えば、オタクとして生きることは、消費の連続である。配信されたYouTubeの動画に沸き立った次の瞬間、「次はなにやるんだろう?」と期待する。毎日毎日、担当の新たな情報が流れてこないかSNSを開く。チケットの争奪戦に勝てるように家族や友人を総動員してみる。「あの企画、◯◯くんにもやらせてくれないかなあ」と呟いてみる。

 

アイドルを見るとき、私は彼らを消費しようとする。

桜庭一樹の『少女七竈と七人の可愛そうな大人』およびその収録作「ゴージャス」(角川文庫、2009.3)を思い出す。

この作品には、元アイドルで現在はスカウトをしている「梅木美子(乃木坂れな)」というキャラクターが登場する。彼女は言う。

性質が異質で共同体には向かない生まれのものは、ぜんぶ、ぜんぶ、都会にまぎれてしまえばいい。

(「少女七竈と七人の可愛そうな大人」)

引退すると決めたとたんに緊張が解け、このとき一気に目の周りの皮膚がくぼみました。(中略)この時がくるのを、待ちわびていた。これからようやく、生き始める。

(「ゴージャス」)

梅木の証言は、彼女が彼女自身を消費財として捉え、消費されきるときを望んでいたことを示す。美しすぎる、目立ちすぎる、そうした特質を、人は浪費ではなく消費しようとする。

(もちろんずっと長い間付き添っていくファンもあろうが)次のアイドルが産まれれば、消費者はアイドルを乗り換える。アイドルという記号を食べつくしたはずなのに、それでもなお満足しないから、次に行くのだろうか。

なおかつ梅木自身も自分を消費するために必死であったのではないか、と思う。それはなぜか。消費者によってすべて削ぎおとされた結果輪郭が顕になる、将来出会うべき己を浪費するためである。

わたしはずっと、自分自身に逢いたいと思っておりました。(中略)誰もわたしの本質にふれたものはいなくて、それは他人を責めるようなことではなく、自分自身もまた、自分を知ることができずにいました。

(「ゴージャス」)

しかし梅木は引退に及んで、とうとう自分は孤独であることに思い至り、アイドル時代の歌を口ずさむのである。

 

ではアイドルを消費する私たちはどうすべきか?  と考えてしまう。

私自身は、基本的なスタンスとして、サブスクリプションの配信を望んではいない。音楽はいまや国境を越えて手に入るものとなった。何回再生されたか、はヒットの偉大な(!)指標になっている。

もちろん、彼ら自身が「世界に届けたい」という願望を持っているから、解禁されたら諸手をあげて喜びたい。けれど進んで賛成しよう、とは思わない。

 

音楽の消費のされかたも時代によって変わってきた。サブスクリプションが好まれる、好まれない、という話以前に、メディアの変化によって音楽は短くなってきている。

www.tbsradio.jp

上記から一部引いてくる。

サブスクの音楽配信サービスだと、最初の5秒、曲が始まって最初の5秒で24%が離脱する。つまり聞いてる人の1/4は5秒で他の曲に移っちゃう。
30秒で35%が離脱。最後まで辿り着く人は50%。
というのデータが出ているんですよね。

こういう情報を数字で実際見ちゃうとサビから始めてくださいってお願いする気持ちももうすごいよくわかる笑

(中略)メディアがそういう風に CD からダウンロードに変わり、ダウンロードからサブスク、ストリーミングっていう風にメディアが変化してゆくタイミングで、イントロがどんどん短くなるというのは実は今に始まった話ではないんですね。
アナログレコードから CD にメディアが変わった時も同じような状況があったんです。
CD が出始めた最初の頃、90 年代の初期っていうのはイントロ⻑い曲でまだ結構多くて。(中略)

レコードとかカセットで、早送りとか頭出しとかができない時代はアルバムの流れに沿って 1 曲 1 曲、大切に聞く。
その曲の世界観に入るための導入部、まさに Introduction をすごく大切にするっていう文化が 90 年代初期はまだ多分残っていたんでしょう。

 

ただ90年代初期にはまだあったという、「その曲の世界観に入るための導入部、まさに Introduction をすごく大切にするっていう文化」、これは浪費ではないか?

私たちはメディアによって浪費から消費に舵を切らされている。浪費する贅沢の時代よりも、より多く、より早くを求める動きに乗っている。

ならば私はその動きを観察したい。そして私が失った、喪う以前に手に入れられなくなったものはなにかを考えたい。

 

また、ここまで書いて一つ思ったことがある。

SixTONESの今回のアルバム『CITY』で、盤によって曲順が異なるという試みは、「レコードとかカセットで、早送りとか頭出しとかができない時代はアルバムの流れに沿って 1 曲 1 曲、大切に聞く」という音楽とのつきあい方を復古させたいのではないか。同時にイントロが短い曲がいくつも配置されていることは意識しなければならない。

つまり、過去の音楽の在り方を切望しながらも今の音楽の有り様も取り入れ、単なる消費ではなく、浪費と消費の入り交じった状態をまず目指しているのではないか?

 

もちろん、それが私の勘違いであって、彼ら自身が消費財としての在り方を望むのであれば、それはそれで良いのだ。ならば私も消費者としてそれに付き合う。

ただ、そのやり方ではいつか疲弊する日が来てしまうのではないか。消費財も消費者も共倒れするのは避けたい。

できることならば、消費者である私を眺める浪費家になる、ということを実践できるようになりたいものだ。

「僕らのピンク」考

HIKAKINさんコラボ動画を観てて考えていることを一旦投下。

 

「僕らのピンク」「赤レンジャー」と来れば当然、スーパー戦隊
スーパー戦隊ストーンズ。その中でも、大我さんのメンカラ・ピンクについて考えたい。

 

 


色の関係から見る「僕らのピンク」

ピンクレンジャー(桃レンジャー)は、2021年に至るまで、 スーパー戦隊に出現する回数34回、 そのすべてが女性キャラクターである。
女児向けアニメーションに於いては色彩の固定概念はそこまで強くないけれど、男児向けアニメはまだ色の概念は強い。
赤レンジャーは皆勤賞、青・黄色も頻出し、緑・ 黒も半数以上の作品に登場する。
これは、小学生が習う絵の具の三原色に基づいている。(※ 今の教えかたはわからないけど、私の小学校では赤・青・ 黄を三原色として習った)


ここで生物の色の捉え方の話に寄り道すると、人間の錐体細胞は3種類。 L・M・Sが受けた刺激が信号となり、 数値に変換して脳は色を認識する。
このときLに偏れば赤、Mは緑、Sに偏れば青と知覚する。 ただし、Sが最低値の場合は、 LとMの混合である黄色が知覚される。
また、その偏りが大きいと鮮やかな色になり、 小さいとくすみ色として認識される。
また、L・M・Sが受けた刺激の合計値が最大のときに白、 最低が黒として扱われる。


つまり、ヒーローたちの色は、人間の錐体細胞によって規定されたものだ。
(五輪が赤・青・黄・緑・黒で描かれ、白い旗に描かれるのも、 この人間の視覚に依っているだろう。)


さて、上記で「赤レンジャーは皆勤賞、青・黄色も頻出し、緑・ 黒も半数以上の作品に登場」ということは説明できる。 けれど上記のはなしに出て来た「白」ではなく、なぜ「ピンク」 が登場するのか。


赤・青・黄の組み合わせに緑ないし黒。 ここにもう一色入れる場合、色の彩度が重要になる。
「白」は無彩色と呼ばれ、ヒーロー戦隊の鮮やかさに寄与しない。
しかし、赤・青の中間にある紫を持ってきては、画面上にメリハリが出ない。赤・青・黄・ 緑より彩度の低いものが選ばれた方が全体としての調和がとれる。また、それらと同様に、単体でも一定の華やかさを持つ色でなくてはならない。

そこで選びとられたのが、ピンクというわけだ。


ピンクレンジャーの大我さん

ざっくりピンクレンジャーのキャラクター造形をみていくと、「 お嬢様・包容力・天然」のいずれかの要素が多い感じがする。 これはやはり、 桃やかつてピンクと呼ばれていた撫子からくるものが大きいだろう 。
桃は中国古典において西王母と結び付いている。また、 日本においても、桃太郎は桃から生まれる。つまり「桃≒母性・ 高潔・神聖」といったイメージで捉えてよいだろう。また、 撫子は花言葉に「大胆・貞節・純愛」を持つ。


性別こそ反転すれ、 外から見た大我さんのイメージにすべて合致するところだ。
(あくまで外から見た、という話だ)


周知のとおり、 大我さんはSixTONESの中で最もジャニーズ歴が長い。 高潔かつ神聖なイメージは、彼の育ちからも当てはまる。また、 ジェシーくんから度々言及されるとおり、 (主に外見の面で)女性性はSixTONESの面々の中でずば抜けているだろう。かつ、ジャニーさんに「髪に頼っている」と指摘され、( 衝動的にだろうが)髪を自ら切るという大胆さも持ち合わせる。


だから大我さんは、「僕らのピンク」であるし、また、 そうあるべきなのである。


そして、その「ピンク」は今年1年、 ピンク足りえる姿勢をより加速させている。 主に母性という点において。
例えば、FBbeautyに言及のあった「寛容さ」は、 理想的な母親像のうちのひとつだろう。
また、舞台に悩むジェシーくんへの頻繁なアドバイスや、 北斗くんへの接し方においてもまま親的な姿勢が見られる。
(単にグループのメンバーであるから、頼られているから、 というところで、 無理やり両親のうち母を引き付ける必要もないだろうが)


ピンクレンジャー観の醸成(仮)

同時に、ジェシーくんにおけるピンク観も考えておかないといけないだろう。
HIKAKINさんのコラボ動画において、ジェシーくんは「ガオー!」と吼える。これは推測でしかないが、ジェシーくんが初めて接したスーパー戦隊が『百獣戦隊ガオレンジャー』(2001年2月から2002年2月まで放映)であった可能性を示唆している。

 

1996年6月生まれのジェシーくんが4歳のときに始まった本作品。

「京本は絶対ピンク!」と決めたのはジェシーくんだけれど、 戦隊ヒーローのイメージはあっただろうか。

2015年のポポロにおいて、「ジェシーは赤レンジャー的な意味で赤」とされ、その話の流れの中で決めたのだから、恐らくあるだろうと私は考えている。

ガオレンジャーの紅一点・ガオホワイトは、スーパー戦隊には珍しく"白"のキャラクターだが、ヒーロースーツにも、パワーアニマルのガオタイガーにもピンクがあしらわれている。ピンク=女性のカラーという伝統があるからこそ、単純な白ではなく、この色が効果的に使われているのだろう。

 

また、ガオホワイトのキャラクター造形を見ると、(女性キャラクターだからだろうが)パワーこそないものの、変幻自在の技によって敵を翻弄する。男勝りで一途な性格だが、いつも仲間のことを気遣う優しさを持ち合わせる。厳格な家で育てられたため、礼儀正しく芯も通っている。

 

また、ガオレンジャー以降、ピンクレンジャーは2004年『特捜戦隊デカレンジャー』まで登場しないが、これは上述のことで説明できる。2002年は『忍風戦隊ハリケンジャー』。赤・緑・黄・青の4人のうち女性は青だ。これは上述の「人間の錐体細胞によって規定された もの」であることと、色のイメージの固定観念からの脱却を狙ったものだろう。2003年は『爆竜戦隊アバレンジャー』。(赤・青・黄・黒・白)。これも絵の具の三原色で説明できそうだ。赤・青に比して鮮明にうつるのが黄色であり、また無彩色の黒・白ではヒロインが前景化しない。

2004年にヒロインはピンクに回帰する(デカピンク)。2005年(マジピンク/レジェンドマジピンク)、そしてそろそろ戦隊ヒーローを卒業するであろう、ジェシーくんが9歳(10歳)の2006年(ボウケンピンク)まで、女性キャラで必ず出てくるのはピンクである。

つまり、10歳までの間に、ピンク=女性色と認識付けられている可能性が高い。

(なお、2004年『デカレンジャー』2006年『ボウケンジャー』には黄色の女性レンジャーが、2005年『マジレンジャー』には青の女性レンジャーが登場。ただし、デカイエローはデカピンクより長身、マジブルーは頼りないマジピンクに代わり家事全般を担う、ボウケンイエローはパワーキャラ⇔ボウケンピンクは分析や作戦を練るといった差異がある。)

 

また、スーパー戦隊にそこまで触れていなかったとしても、ピンク=女性の色、という固定概念は、私たちの生活の至る所に溢れていた。

おジャ魔女どれみ』のどれみ、『カードキャプターさくら』のさくら、『デジモン』の武之内空およびパートナー・ピヨモン、『NARUTO』のサクラ……等々、男女どちら向けかに関わらず、ピンクは基本的に女性の色、それもヒロイン格の色である。

ジェシーくんがよく真似しているドナルドダック、そのガールフレンド・デイジーダックも、ピンクのリボンがチャームポイントだ。

 

外見において最もピンクが連想されるメンバー。また、内面性においても、先輩後輩どちらにも慕われる包容力、往々にしてピンクに附される(外から見たときの)天然度、自分の芸事に妥協をゆるさない高潔さ、ピンクしか相応しくないだろう。

 

検討事項:「一番男らしい」

ただし、内面について、ジェシーくんはこうも言う。「一番男らしい」。

一本筋を通し、折れない心について触れている。

2015年のポポロで「女っぽいから避けてきた」色を、周囲が言うからと受け入れるのも、"男らしい"一面に含まれるだろうか。

 

ただし、あくまでファン向けのサービスとは言え、脇を覗いたり、頬を撫でたりするのは果たしてどう扱っているのか気になるところ。

 

自分のなかで一定の結論が出たら、またポツポツ書いていこうかな、と思います。

 

 

それは、変幻する男の物語。(ろーじーMV感想)

それは、一人の男の物語。


そう感じたのは、 普段着の青年らしき6人が順繰りに映される場面。"ふつうの"青年が、街の真ん中に佇んでいる。
街はどこまで行っても終らないものだ。
ぐるりと見渡しても、立ち尽くしても、前に進んでみても。


しかし、ギャングスタの彼らは一人ではない。六人六様の生きざまを見せる。


ここに、ケ⇔ハレを見る。


ケは日常であり、ある種の抑圧状態である。つまり、私たちは世間から(親から、友人から、上司から、)「あなたはこうである」「あなたはこうしなくてはならない」というメッセージを受け取り、実際にある程度のところまで、そのイメージに沿うように動く。
"ふつうの"青年である彼らには、二十歳ぐらいの、社会に希望も絶望もこれといってないような感じを受ける。

 


反対に、ハレ、非日常にあるギャングスタの彼らは解放状態だ。六人六様の表情。

特に、北斗くんの表情に異常性を見る。常軌を逸したと感じさせる笑み。"ふつうの"青年に戻った後も、その顔の笑みは戻ることがない。行くところまで行き着いてしまった。狂気の沙汰の中で、ふつうの仮面を被って生きる。
(人肉喰ってそうとか言ってごめん、食べてそうな顔してたんだよ)


ジェシーくんはトリックスターだろう。善悪どちらにもやじろべえのように傾く。但し、彼自身が善悪の狭間で揺らいでいるのはない。社会が揺らいで、その時にどちらで見られるかというだけの話。トリックスターはあるときには愚者であり、あるときは賢者だ。どの方向から彼を見るかで、彼はどちらに転んでも自分なのである。


大我さんの表情には最もぞっとした。何もないのだ。(いや、細かく見ていけばあるのだけれど。「摩天楼の針の間に」とか。)恐らく、現実の"ふつうの"青年とは違った方向の抑圧がある。彼を抑圧しているのは、他人ではなく己自身である。時折歪む顔は、その自己抑圧すら制御しきれない怪物の出現だ。


映像を見ていると、『ジキルとハイド』が思い起こされる。


聡明かつ善良な紳士であるはずのジキル博士は、抑えがたい情動を持てあまし、二重生活を送る。薬品によって変身する術を得た彼はやがてほの暗い欲望の産物であるハイドに呑み込まれる。

私が、人間はもともと完全に二重性のものであることを認めるようになったのは、その道徳的方面でだった。しかも私自身の意識の分野の中で互いに争っている二つの性質のどちらかが自分であるとはっきり言えるのは、ただ自分が根本的にはその両方であるからである、ということを知った。(中略)もしその各々の要素を別々の個体に宿らせることさえできたなら、人生はあらゆる耐えられないものから救われるであろう。正しくない要素は、自分と双生児の一方である正しい要素のすべての志望や悔恨から解放されて、自分の欲するままの道を行くことができるであろうし、正しい方は、自分の喜びとする善事を行ない、縁もないこの悪の手によって恥辱や悔悟にさらされることなしに、安心して堅実に向上の路を歩むことができるであろう

ーーーー

私は、我々がそれに包まれて歩いているこの見たところいかにも頑丈なような肉体というものが、極めて不安な実体のないようなもの、霧のようなはかないものであることを、今までに述べられたよりももっと深く了解するようになった。

ーーーー

今から半時間もたてば、私は再び、そして永久に、あの憎み嫌われる人間に変っているであろう(中略)。ハイドは処刑台上で死ぬだろうか? それとも最後の瞬間になって逃れるだけの勇気があるだろうか? それは神さまだけがご存じである。私はどちらでもかまわない。これが私の臨終の時なのだ。そしてこれから先におこることは私以外の者に関することなのだ。だから、ここで私がペンをおいてこの告白を封緘しようとするとき、私はあの不幸なヘンリー・ジーキルの生涯を終らせるのである。

(以上、『ジーキル博士とハイド氏』スティーブンスン、佐々木直次郎訳、新潮文庫


MVでははじめのポジションに全員が戻るけれど、見ている方向は反対だ。
善悪は合わせ鏡であり、内面が変わろうが、それは仮面を被ってしまえばわからない。


他人に飼い慣らされた自分と、抑圧から解き放たれた自分とを比べて、どちらが正しいか。答えはたぶん無くて、だからこそ人は自分にとってのヒーローを産み出してしまうのだろう。

偶像として生きる人へ:27歳に寄せて

何を書くべきか考えあぐねて、12月3日、金曜日を迎えようとしています。

 

まずは京本大我さん。12月3日。人間歴27年目。おめでとうございます。

 

大我さんの物事への向き合いかたがとても好きです。たぶん。

たぶんと言うのは、私は結局表出している大我さんしか知り得なくて、その裏にどんな葛藤があるのか、どんな喜びがあるのか、一生知り得ることはないからです。

 

パフォーマンスをする大我さん。バラエティやYouTubeの"愛くるしい"大我さん。舞台上で役を憑依させる大我さん 。

 

大我さんを見ていると、人間存在の複雑さを思うことがあります。

人間は、ある人の前では横暴になり、ある人の前ではへつらい、ある人の前では甘え、何とも食えないものだなあ、と思います。

そんな中でも真っ直ぐに生きていくのって大変だなあ、とも。

 

そして人間はきっと、偶像の前には平伏すか、誓いを立てるか、すがるか。あるいはその偶像の権威を笠に振る舞うかもしれません。

 

アイドルとしての決意が固まってから今日を迎えるまでずっと大我さんが偶像として生きていることに、尊敬の念を禁じ得ません。

 

人間は、何かを為さんとして心折れてしまうことだってたくさんあります。心折れて別の道へ行っても、自分の人生だから、他人には何の問題もない。けれど、それでもアイドルとして生きることを選んだ大我さんを、純粋にすごいと思います。

 

人から求められることは、大きな喜びもありながら、ときに重荷で、「なぜ人は私にもっとと求めるのだろうか」と懊悩することもあります。

小市民の私がそうなのだから、より多くの人々の眼前にその身を晒す大我さんは尚更のことでしょう。

 

多くの人が助けや癒しを求めたり、そこから勇気を得たり、偶像というのはとかく人に与え続けるものだと思うのです。

 

人に求められる"京本大我"をずっと更新し続ける。アスリートのようだとも、聖人のようだとも思います。

 

書きながら、頭のなかが万華鏡じみてきました。本体はひとつしかないのに、鏡の反射によってまるで永遠のように続く無限の世界。くるりと廻せばまた違う一面を見せる。

 

大我さんの1年が、いや、もっと先まで、たくさんの可能性が無限に続きますように。

 

 

ウチとソト/ハレとケとケガレ/ファンアートと転載と濁酒。

どぶろくってご存知ですか。 私は呑んだことがないので味は知らないのですが、概念として。とりあえずここでは自家醸造の酒=どぶろくという非常に雑な扱いでつらつら。

ファンアートはどぶろくだなあとぼんやり思いまして。


最近、「転載やめましょう!」「通報しましょう!」 系の呼び掛けを目にすることが増えてきまして。
それ自体はすごく良いことだと思うんですよ。 だってイリーガルなことではあるし。 権利者たちのお目こぼしをいただいているだけであって、 言われたらそりゃ悪いことやってるのは転載してる方ですし。


でもそうやって叫んでる人がファンアートを容認している( リツイートやイイねをしている、あるいは自分がつくっている) のは非常に違和感があるわけです。
「うるせえ」と言われそうなことからいけば、事務所がこう言ってるわけで。

 

https://www.johnnys-web.com/s/jwb/faq/10007_1?ima=4333

 

まあ画像とか音源とかその他タレントが写ってるものだったり、とにかくタレントが関わってるもので著作権違反するなと。
で、

所属アーティストのイラストの掲載等もご遠慮いただいております。

ってあるんですよね。「ご遠慮」って婉曲な書き方はしているけれど、はっきり事務所は「イラスト等(≒ファンアート)はやめろ」って言っている。


でもファンアートに突っ込みを入れるのは、よほど妄想じみているものに対してしか私は見たことがないです。


あれ?
転載の禁止を叫ぶなら、ファンアートも違反だよね?
ともやつくことが多くて。


ああこれ多分どぶろくの話だなあ、と思った。
自家醸造の酒が禁止されたのが明治。でもそれまで家で酒つくってたんだから、いきなり規制されるのはおかしくない?って密造されてたり、どぶろくの自由を求めて裁判がされたり。


ファンアートはどぶろく作りと一緒だなあと思うのは、一番はこれ。
「個人で楽しんでるんだから、描いてSNSにあげるのはOKでしょ。」


でもそのあとにこう続くんじゃない?って穿っている。
「私の描いたものに共感してくれる人もいるし。みんなだってここ(パフォーマンスだったり仕草だったり、)好きでしょ?   それに私以外にも描いてる人もいるじゃん。」
"個人で楽しむ"のに"みんな"が出てきちゃってないですか、って。

 


これ、私、日本的な「ウチとソト」「ハレとケとケガレ」も関わってくるのかな。って思ってます。

ハレとケとケガレはこのリンク先のブログでシンプルにまとまっているので、ぺたり。

 

nisinojinnjya.hatenablog.com

 

例えば誰かがミュージカルに出るとか、ドラマに出るとかは、発表されたら私たちは「晴れがましい」ことだとか「晴れの場」に彼らが出るって思う。主題歌になるとか、権利の厳しい作品に参加させてもらうとかも。

で、それを受けて「転載やめましょう」を言うのは、「晴れの場を汚してはならない!」という意識。より良い体験として、彼らの「晴れの場」をもっとこの先にもつくりたいという願い。

 

その「ハレ」(晴・非日常)は、いざドラマの放映が始まったら、いざミュージカルの公演期間になったら、「ケガレ」状態にある私たちに活力を与え、「ケ」(褻・日常)を過ごすエネルギーに変換される。

(※リンクに飛んでれば誤解ないと思うのですが、「ケガレ」は穢れではなく「気(≒霊力)・枯れ」です念のため)

そして「ケ」にいる私たちは、そこで得たエネルギーを使ってさまざまに思考したり、絵を描いたり、それを発表したりする。

また「ケ」を過ごしてエネルギーの枯渇した私たちは「ハレ」によって「ケガレ」の状態から脱していく。

そして「ケ」に「ハレ」の空間で得たものを持って帰ってきて、それを飾るのが転載だとかファンアートなんじゃないかなあと考えたりするのです。

 

また、「ウチとソト」でいくと、敬語の扱いが正に、と腑に落ちました。

現代の人の意識には、自分が所属しておらず疎遠であるソトと、家族や職場など親密であるウチの二項が存在していて、ソトにいる相手の領域を侵犯しない距離をあらわすために敬語が用いられている。

hirosaki.repo.nii.ac.jp

 

SNSで転載・ファンアートの掲載をするのは、「ウチ」の意識が強いのではないか。

転載の禁止を呼び掛けるもので多く見るのは、「関係各位にご迷惑がかからないように」と、「これで迷惑をかけたら、次のしごとがなくなるかもしれないから」。

前者はソトへの配慮で、後者はウチの利益。

 

転載は内輪受けのように行われてて、ファンアートはまさに内輪のためにつくられてて、どっちも「ウチ」のためのものなんだよね。

「私の描いたものに共感してくれる人もいるし。みんなだってここ(パフォーマンスだったり仕草だったり、)好きでしょ?   それに私以外にも描いてる人もいるじゃん。」はまさしくそうだと思ってる。

 

最初にファンアートはどぶろくって書いたけど、どっちも結局どぶろくであって、どっちのどぶろくがより違法性が高いかを競ってるようなもんなのじゃないの、と思ったのがとりあえず今日の結論です。

顔についての雑感( ※『他人の顔』のことと大我さんのこと。)

私はふだん言及している通り、大我さんのファンであると自認している。たまに、自分は合っているのだろうか、と思う。

一般的なジャニオタと言われてる人たちとは感覚がずれているんだろうと思う。

ジャニーズのことを考えてるとき、自分は差別する人間であると自覚するからこそ、このズレが螺旋状に大きくなっているような感覚がある。

 

『他人の顔』 雑感

顔は、自分で見ることはできないのに、自分のアイデンティティをあらわす場所。
『他人の顔』は、顔を失い繃帯でぐるぐる巻きにした男のはなし。

顔を持っているとき、主人公の顔を意識するものはあまりいなかっただろうと推測する。

 

繃帯でぐるぐる巻きになっていると言えば、1933年映画『透明人間』。
映画は顔を包帯で覆い、目を黒いサングラスで隠した奇妙な男が、アイピング村の宿屋に泊まりに来るところから始まる。
男は透明になれる薬の副作用で狂暴な思考に偏っており、宿屋の主人を階段から突き落とす。警官を絞め殺そうとし、失敗し逃走。最後には警察に終われ逃げ込んだ納屋に火をつけられ、大火傷を負って命を落とす。

 

顔がないこと、繃帯で隠れていることは人々の恐怖感を掻き立てる。そこにあるはずのものが見えないことで、人は却ってそこに注目する。

だから『他人の顔』の主人公は、「見る」主体から「見られる」主体に反転し、それが彼の人生に通底する絶望感になる。

 

不特定多数に「見られる」ということは、疎外されることである。今であっても不特定多数に「見られる」ことは特別視されることと同意であるのだから、急速に発展していく時代に生きた男にとっては尚更。
それも好意的な眼差しではなく、奇異の目で。下卑た目で。

 

顔を失い疎外された男は、妻との関係もうまく行かない。
果たして男は、状況を打破するために仮面をつくる。それは失った顔ではなく、新しい造形の顔だった。さらに、新しい顔のために、アパートの一室を借りる。
まったく知らない他人のふりをして、妻に街中で声をかけ、そして見事に妻を誘惑する。

男は仮面ー妻ー自分の三角関係に苦悶し、すべて記した手記をアパートに残し、妻に読ませる。妻が手記を読み終わった頃を見計らってアパートに向かうと妻の姿はなく、一通の手紙が置かれていた。

 

すべて分かっていたのだと。夫だと分かった上で仮面との逢い引きを重ね、関係性を回復しようとしたのだと。そして夫もそんなことは了解しているだろうと思っていたと。

そして、夫が何も「見て」いなかったことを理解した妻は絶望し、失踪を選ぶ。

 

妻は夫という個人によって「見られる」べき存在であったのに、「見る」存在であるべき夫は、事故で顔を失ったときから、不特定多数の暴力的な視線で「見られる」存在に成り変わってしまった。

仮面をつけた夫は「見る」存在へと快復したように感じられたものの、実際には誤りだったのである。仮面はあくまで仮面であり、顔を失った男の本質は「見られる」ものに固定されてしまったのだから。

 

そういえば、三島由紀夫はこの小説についてこう書いている。

顔はふつう所与のものであつて、遺伝やさまざまの要因によつて決定されてをり、整形手術でさへ、顔の持つ決定論的因子を破壊しつくすことはできない。しかも顔は自分に属するといふよりも半ば以上他人に属してをり、他人の目の判断によつて、自と他と区別する大切な表徴なのである。

〈「現代小説の三方向」『展望』1965年1月号〉

 

自分の顔はアイデンティティの象徴であるように思われながら、他人の所有物でもある。

自分から見えないことを加味すれば、他人の所有物である方が大きいような気もする。自分にへばりついたそれは常に視線に晒され続けなくてはならない。

 

そういえば、名誉を失うことを「顔が潰れる」という。男は顔を失ったことで、名誉まで剥ぎ取られたのだろうか。

 

 

「見る」こと、不特定多数から「見られる」こと

大我さんの顔が好きで眺めていると、なんだか情動キメラを見ている気分になることがある。

 

名古屋大学(名大)と東京大学は、古典芸能で使う「能面」が多様な表情を見る側に想起させるのは、「能面」が多様な表情を見る側に想起させるのは、能面の各顔パーツが異なる情動を表現している「情動キメラ」であることが原因であり、こうした「情動キメラ」からの表情判断は、主に口の形状に基づいてなされることを示したと発表した。

(中略)能の美が総合的な藝術として、視覚、聴覚などに訴えかけているというだけではなく、その中に心理学的な「仕掛け」「揺さぶり」を込めることで、より微妙な感情表現を施しているのではないか

名大と東大、「能面」が多様な表情に見えるのは「情動キメラ」が理由と解明 | TECH+

 

私がたまに持つ引っ掛かりはこれなのだろう。大我さんはアイドルとして自分を制御し続けるように「見える」。

アイドルはずっと、ファンの眼前にその身を晒し続けなくてはならない。不特定多数から常に「見られて」いる。

 

「見る」ことはファンの当然の行いであり、好意的であればほとんど問題にならないだろう。その行為が彼らの収入を産むのだから。

しかし、「見る」私と「見られる」アイドルの距離を見誤ったとき、均衡が崩れてしまう。「見られる」対象を自分の所有物であると思い込むからこそ、距離を間違える。

芸能に従事していない人間の顔は特定の他人の所有物である。けれど、芸能に属する人間の顔は、(少なくとも仕事をしている間は)不特定多数の他人の所有物だ。

人を魅了するためには、人に捉えられない貌を作り続けなくてはならない。そう言えば大我さんは口によく感情が出るような気もする。むいっとした形や、口角のあがる形、すぼまる形。なるほど確かに口で人は感情を読もうとする。少なくとも私は。

大我さんはおそらく、能面の表情のような揺さぶりで、(意識的か無意識かは知らないけれど)自分とファンとの距離を離している。そうして、自分は共同体の一員ではないことを意識付けさせている。自ずから進んで疎外されに行っているのである。

 

特定の個人に「見られる」存在ではなく、不特定多数に「見られる」存在は、被差別者である。私たちは芸能人に対して常に差別をしているし、それが彼らの収入を得る手段にもなっている。

 

芸能人の結婚に怒りを感じる、落胆する、というのは、疎外されるべき人間が共同体を見つけたことに対しての失望を含んでいるような気もする。

 

 

 

 

 

大我さんの『癒えない』に助けてもらったって話

※暗い話する。私は本質的に暗いんだと思う。

 

大我さんのソロが聴きたい。
京ジェのふたりのアルバムも、いつか出たら欲しいし、ライブだって絶対チケットをもぎ取りたい。

何で自分がこんなに大我さんに執着してるんだろう、って思ったけど、やっぱり『癒えない』だろう。

 

歌番組でSixTONESをたまたま見て惹かれて、YouTubeを検索してストチューブを視聴して、関連動画で『癒えない』があがっていて、何の気なしに押してしまった。

 

ああ、私、この人が好き。

 

何度も観た。何度も。もしこれがビデオなら擦りきれるくらい。

 

昏かった。知ってるジャニーズじゃなかった。私の知っているジャニーズは(KAT-TUNを除いて)キラキラの擬人化みたいな人たちだった。KAT-TUNはギラギラの擬人化。

 

ファンブログで、大我さん自身の解説をまとめているものを読んだ。

読んで、やっぱりこの曲は絶望を象った希望の歌なんだって思った。

 

『癒えない』を歌う大我さんに出会った頃、私は擦りきれてたと思う。しごとに振り回されて動悸がしていて、そこにいるのすら、息をしてるのすら辛すぎて、2時間お手洗いに篭って泣いてたり、不安で一睡もできないで40時間ぶっ通しで起きててしごとしてたり、滅茶苦茶だった。

会社帰りのタクシーのライトが綺麗で、あー今ならきっと痛くない、こんなに明るい光に引かれても痛くないって車道に一歩踏み出しそうになって、はっとして、今死んだら周りに迷惑がかかるって道ばたにしゃがんで白い目で見られてた日とか、ストールのグレーが濃くなっていくのを、立ち上がれるまでじっと見てた。

 

「光はどこだ?」ってスタンドを、光を振り回す大我さんに、もがく人を表現する大我さんに救ってもらった。

私の光がここにあるって、無意識に理解したんだと思う。

 

もちろん大我さんは暗い一辺倒の人じゃないし、聖人のような微笑を湛えているときの大我さんも好き。

ヒルちゃんみたいな顔で驚いてたり、他人から見て不思議なんだろうなってことをやったりするのも。

 

 

今、私はしごとに殺されそうになるんじゃなくて、うまくしごとを御したいと思ってる。

でもやっぱり、少しでもキャパを超えると、ああ、開放厳禁のあの窓から身を乗り出したいな、青空が眩しいから今なら飛べるのかな、って危険思想が顔を出す。

ごはんを食べる時間が惜しくてしごとして、1週間で3キロ落ちたとか、リバウンドまっしぐら。

上司に「しごとは大事だけれど、あなた自身をもっと大切にしなさい」って諭される。

 

危険思想に染まりかけて、ああ、『癒えない』を聴きたいな、と思う。「光はどこだ?」ともがく人。わずかな嫉妬とともに、「覚悟をため込んだ毒を 飲み込むその仕草」を見て苦しくなる人。

歌詞の終盤では

賢さをただ従順さを
必要とされたら もう用はない
また傷口が開く前に
この心触れれば まだ熱は残っている

抗う意志をじわりと滲ませる人。

 

この闘う精神が、私に希望を抱かせるんだろう。私を大切にするとは、つまるところこういうところなのかもしれない。

この歌を思い出すと、私も抗う心を持ちたい、ってちょっとだけ立ち上がろうとすることができる。

 

これは決意を固めた人の歌なんだろう。きっと。光源はいくつもあるけれど、そのなかの一筋を掴もうとしてもがく歌なんだろう。

大我さんは求めて止まない光を、いまどの程度掴んでるんだろう。

 

できることなら、いつか、『癒えない』の続きを聴きたい。