Pray through music

すとーんずにはまった元バンギャの雑記。

顔についての雑感( ※『他人の顔』のことと大我さんのこと。)

私はふだん言及している通り、大我さんのファンであると自認している。たまに、自分は合っているのだろうか、と思う。

一般的なジャニオタと言われてる人たちとは感覚がずれているんだろうと思う。

ジャニーズのことを考えてるとき、自分は差別する人間であると自覚するからこそ、このズレが螺旋状に大きくなっているような感覚がある。

 

『他人の顔』 雑感

顔は、自分で見ることはできないのに、自分のアイデンティティをあらわす場所。
『他人の顔』は、顔を失い繃帯でぐるぐる巻きにした男のはなし。

顔を持っているとき、主人公の顔を意識するものはあまりいなかっただろうと推測する。

 

繃帯でぐるぐる巻きになっていると言えば、1933年映画『透明人間』。
映画は顔を包帯で覆い、目を黒いサングラスで隠した奇妙な男が、アイピング村の宿屋に泊まりに来るところから始まる。
男は透明になれる薬の副作用で狂暴な思考に偏っており、宿屋の主人を階段から突き落とす。警官を絞め殺そうとし、失敗し逃走。最後には警察に終われ逃げ込んだ納屋に火をつけられ、大火傷を負って命を落とす。

 

顔がないこと、繃帯で隠れていることは人々の恐怖感を掻き立てる。そこにあるはずのものが見えないことで、人は却ってそこに注目する。

だから『他人の顔』の主人公は、「見る」主体から「見られる」主体に反転し、それが彼の人生に通底する絶望感になる。

 

不特定多数に「見られる」ということは、疎外されることである。今であっても不特定多数に「見られる」ことは特別視されることと同意であるのだから、急速に発展していく時代に生きた男にとっては尚更。
それも好意的な眼差しではなく、奇異の目で。下卑た目で。

 

顔を失い疎外された男は、妻との関係もうまく行かない。
果たして男は、状況を打破するために仮面をつくる。それは失った顔ではなく、新しい造形の顔だった。さらに、新しい顔のために、アパートの一室を借りる。
まったく知らない他人のふりをして、妻に街中で声をかけ、そして見事に妻を誘惑する。

男は仮面ー妻ー自分の三角関係に苦悶し、すべて記した手記をアパートに残し、妻に読ませる。妻が手記を読み終わった頃を見計らってアパートに向かうと妻の姿はなく、一通の手紙が置かれていた。

 

すべて分かっていたのだと。夫だと分かった上で仮面との逢い引きを重ね、関係性を回復しようとしたのだと。そして夫もそんなことは了解しているだろうと思っていたと。

そして、夫が何も「見て」いなかったことを理解した妻は絶望し、失踪を選ぶ。

 

妻は夫という個人によって「見られる」べき存在であったのに、「見る」存在であるべき夫は、事故で顔を失ったときから、不特定多数の暴力的な視線で「見られる」存在に成り変わってしまった。

仮面をつけた夫は「見る」存在へと快復したように感じられたものの、実際には誤りだったのである。仮面はあくまで仮面であり、顔を失った男の本質は「見られる」ものに固定されてしまったのだから。

 

そういえば、三島由紀夫はこの小説についてこう書いている。

顔はふつう所与のものであつて、遺伝やさまざまの要因によつて決定されてをり、整形手術でさへ、顔の持つ決定論的因子を破壊しつくすことはできない。しかも顔は自分に属するといふよりも半ば以上他人に属してをり、他人の目の判断によつて、自と他と区別する大切な表徴なのである。

〈「現代小説の三方向」『展望』1965年1月号〉

 

自分の顔はアイデンティティの象徴であるように思われながら、他人の所有物でもある。

自分から見えないことを加味すれば、他人の所有物である方が大きいような気もする。自分にへばりついたそれは常に視線に晒され続けなくてはならない。

 

そういえば、名誉を失うことを「顔が潰れる」という。男は顔を失ったことで、名誉まで剥ぎ取られたのだろうか。

 

 

「見る」こと、不特定多数から「見られる」こと

大我さんの顔が好きで眺めていると、なんだか情動キメラを見ている気分になることがある。

 

名古屋大学(名大)と東京大学は、古典芸能で使う「能面」が多様な表情を見る側に想起させるのは、「能面」が多様な表情を見る側に想起させるのは、能面の各顔パーツが異なる情動を表現している「情動キメラ」であることが原因であり、こうした「情動キメラ」からの表情判断は、主に口の形状に基づいてなされることを示したと発表した。

(中略)能の美が総合的な藝術として、視覚、聴覚などに訴えかけているというだけではなく、その中に心理学的な「仕掛け」「揺さぶり」を込めることで、より微妙な感情表現を施しているのではないか

名大と東大、「能面」が多様な表情に見えるのは「情動キメラ」が理由と解明 | TECH+

 

私がたまに持つ引っ掛かりはこれなのだろう。大我さんはアイドルとして自分を制御し続けるように「見える」。

アイドルはずっと、ファンの眼前にその身を晒し続けなくてはならない。不特定多数から常に「見られて」いる。

 

「見る」ことはファンの当然の行いであり、好意的であればほとんど問題にならないだろう。その行為が彼らの収入を産むのだから。

しかし、「見る」私と「見られる」アイドルの距離を見誤ったとき、均衡が崩れてしまう。「見られる」対象を自分の所有物であると思い込むからこそ、距離を間違える。

芸能に従事していない人間の顔は特定の他人の所有物である。けれど、芸能に属する人間の顔は、(少なくとも仕事をしている間は)不特定多数の他人の所有物だ。

人を魅了するためには、人に捉えられない貌を作り続けなくてはならない。そう言えば大我さんは口によく感情が出るような気もする。むいっとした形や、口角のあがる形、すぼまる形。なるほど確かに口で人は感情を読もうとする。少なくとも私は。

大我さんはおそらく、能面の表情のような揺さぶりで、(意識的か無意識かは知らないけれど)自分とファンとの距離を離している。そうして、自分は共同体の一員ではないことを意識付けさせている。自ずから進んで疎外されに行っているのである。

 

特定の個人に「見られる」存在ではなく、不特定多数に「見られる」存在は、被差別者である。私たちは芸能人に対して常に差別をしているし、それが彼らの収入を得る手段にもなっている。

 

芸能人の結婚に怒りを感じる、落胆する、というのは、疎外されるべき人間が共同体を見つけたことに対しての失望を含んでいるような気もする。