Pray through music

すとーんずにはまった元バンギャの雑記。

『スタンディングオベーション』感想/誰にとって「不要不急」?

◯この記事にたどり着いた方へ
お読みいただきありがとうございます。SixTONESジェシーくん主演『スタンディングオベーション』(@赤坂ACTシアター、2021年8月3日~29日)感想です。

 

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各演者さんに詳しいわけではないので、主に物語がどういう内容だったのか、私なりの感想です。すごくぐちゃぐちゃで、整頓はされていません。

※台詞はニュアンスでしか覚えていません。
※「不要不急の外出はお控えください。」の段は私の個人的な話なので、飛ばしてそれ以後を読んでいただければ良いかなあと思います。

 


◯本題

「不要不急の外出はお控えください。」

私たちの日常が、「不要不急」を取り除こうとされ始めた日。
あれからずっと、私たちの日常は、生活に直結するわけではないものを緩やかにゴミ箱に入れ続けている。

仕方のないことでもある。未知なのだから。人は未知に抵抗する力を持っていないのだから。
その未知は少しずつ、非日常から日常になってきて、既に当たり前になった。

私の好きなバンドのいくつかも、メンバーの新型コロナ感染が発表されて、ライブが何本も中止になった。そのうちの一人は入院して、退院後、現状をSNSで私たちに伝えてくれた。
1曲歌いきる体力すらなくなってしまった。リハビリで今日はこんなことをした。20分の運動も休み休みの身体がもどかしい。

私の好きなライブハウスは概ね地下にあって、換気が悪く、空気が籠る。
「不要不急の外出を控えてください。」「三密を避けてください。」と言われた日から、ライブハウスは遠くに行ってしまった。

あの空間が好きだ。
音楽や光を一身に浴びられるあの空間。
ぼそぼそとした、はにかんだ喋り方で、心の裡を教えてくれるMC。
まったく知らない人たちと、同じバンドが好きだからというだけで居合わせて、夜光虫みたいに音に吸い寄せられて蠢くフロア。
私は自分の身体を抜け出して、ただ彼らのつくる世界に没入して、揺蕩う精神になる。

毎日を過ごす中で、人はある程度精神を擦り減らして生きていると思う。
仕事で良い結果が得られたときは少しだけつま先が浮いたような、ふわふわした気持ちになれる。
でも、何かミスをした時がつらい。私が納期を間違えたせいで必要なものが届かなかった、完成しなかった、というミスより、依頼してきた相手が納期を勘違いしていて、1か月後で問題ないと伝えてきていたのに、本当は明日必要だった、という場合が殊更つらい。

 

それから、結婚や子どものことを訊かれるのも少しだけ心がささくれる。妙齢だからと、なぜか訊かれる。
私は自分の子どもは欲しくない。自分の子どもを愛せなかったらどうしよう。醜いと思ってしまったらどうしよう。私の顔の要素がひとつでも遺伝したらどうしよう。生まれてもない子どもが可哀想になる。

母親がブスだと言ったのだから、私の造形は醜いんだろう。眼の形も鼻の形も全部、母の理想じゃない。
そういえば、大学時代、友人に「整形したい」と言ったら、「イヤミか」と相手の気分をひどく害してしまった。私は私の顔について話をしているのであって、彼女の顔の話はしていないのに、と思ったけれど、兎角私は無神経なのだろう。
母親に可愛くないと言われた顔。そこに引っ付いている眼。二重であろうと多少大きかろうと、母親の欲しい眼じゃない。そこを褒めてくる人の無神経さは棚にあげるのに、自分だけの顔に言及することの何が「イヤミ」なのだろう、と薄暗く思わなくもないけれど、私が私の顔にコンプレックスを持つことも、口外するのも無神経なのだ。


ライブや観劇はそうしたものから全部解放してくれる。不急ではあるかもしれない。でも、絶対に不要ではない。
自分を否定する自分も、肯定する自分も、音楽には関係ない。ただそこにあるだけの自分になれる。


そうした鬱々とした日々の中発表された、『スタンディングオベーション』。
自力で手にした1枚。そして、遠方だからと泣く泣くあきらめた友人から譲り受けた1枚。

2日間観劇することができた、その感想を綴っていきます。

 

感想

この舞台は非常に実験的で、好戦的で、同時に人に手を差し伸べるものだったと思います。

 

実験的要素

劇空間と現実を繋げる仕掛けが至るところに張り巡らされていました。

劇場に足を踏み入れると、まず『ジョージ2世』のポスターが至るところに貼られているのに気がつきます。



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主演:鳴島誠也、8月3日~29日、赤坂ACTシアター

私たちは、『スタンディングオベーション』を観にきた現実と同時に、『ジョージ2世』を観にきた、という仮想空間の観客であることが求められます。

 

さらに、劇中で殺人犯が客席に潜んでいることが明かされたあと、ロビーのゴミ箱には「立ち入り禁止」のテープが貼られ、ますます現実と劇の混同を引き起こさせようとしていました。(幕間で席を立たなかったので、この仕掛けには気付かず……実際に目にしていたら、感興を引き起こす仕掛けだったろうな、と思います)

 

また、パンフレットのカバーも『ジョージ2世』のものが掛けられています。1枚めくれば、本体は『スタンディングオベーション』のパンフレット。どこまで行っても二重構造の世界に、観客は置かれます。

 

この劇の筋は『ジョージ2世』のある日の公演で、ある政党の幹事長を殺した犯人が客席に紛れ込んでいるので、その犯人を刺激しないように舞台は予定通り行い、密かに犯人を捜しだす、というもの。

刑事役の二人や演出助手、演出家、……と様々なキャラクターが客席に降りることで、犯人が実在するかのような臨場感を与えようとしていました。

臨場感といえば、客席に乱入してくるリポーターとカメラマン。ワイドショーが舞台のモニターに映し出され、「幹事長死亡」「犯人は劇場に潜んでいる」というニュースを流す。

そして劇場の外の騒乱が示されたあと、ややあって、リポーターとカメラマンとが客席に入り込んでくる。

幹事長殺害は実際の出来事で、ここに犯人が確かにいる、と印象付けるかのように。

 

もちろん、観客巻き込み型の舞台は、今までだって幾度となく上演されてきました。けれど私は今までの乏しい観劇経験では体験したことがなかったので、とても新鮮でした。

 

好戦的だと思ったところ

まずは、役/演者の紹介方法について。

可動式のモニターをうまく使っていました。

パネルの枚数は正確には覚えていないのだけれど、何枚ものモニターがこんな風に組み合わせて吊るしてあって、それぞれバラバラの映像を映せるようになっています。


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そして、それを動かしてくっつけてやることで一つの大きなモニターとしても使えるようになっていました。

どう紹介に用いていたか。

モンタージュの技法を用いて、各演者の目なら目だけ、口なら口だけをそれぞれのモニターに映したあと、正しいピースを嵌めて、役/演者の名前を表示する。

そのキャラクターですら、アリバイがあるのに"容疑者"のように扱う。イメージの集合体。

 

次に、アイドルやそのオタクに対して。

主人公の誠也は、大手芸能事務所に所属する売り出し中のアイドル。その誠也に「いきなり主役なんかじゃなくて、もっと小さい役からコツコツと経験を積み上げていきたかった」と言わせたり、周りのキャラクターに「大人の事情で(ミュージカルじゃないのに誠也の歌唱やダンスのパートが入った)」と言わせたりします。

確かにジャニオタになる前、私もそういう風に思っていたし、今だって好意的にジャニーズを見る人でなければ、そう思うだろう。知らなければいずれそんなものです。

 

また、比較的早いシーンで、「エリザベートに出れば良いのに」「メンバーが出てますよ」というやり取りが挿入されていました。

明らかにSixTONESジェシーくんと誠也の境目をわからなくさせようとしているのでは、と考えます。team SixTONESであれば大我さんが『エリザベート』に出演していたのはもちろん知っているし、よく観劇をされている方も、『スタンディングオベーション』主演のジェシーくんのことを調べれば、芋づる式に京本大我の名前が出てきて、「あの子がいるグループなんだ」ということがわかる。

 

(知らなかったとしても、「誠也はグループでアイドルをやっている」「そのグループには、『エリザベート』に出るような子がいる」というキャラクター付けができるから、あーうまいなあ、観客を2つの層に選別してるんだなあ、と思います。)

 

ところで一般にアイドルオタクのイメージってどんなものなんだろうか。対象に並々ならぬ思い入れを抱く人、でしょうか。

近年のオーディション番組の盛り上がりを考えると、人はアイドルの成長譚を見るのがどうやら好きらしい。

普通の男の子/女の子であった誰かが、オーディションで長期に渡って試され衆目に晒され続けることで“アイドルらしさ”を身につけていく過程。何者でもなかった彼らが、何がしかになっていく様子。

 

そもそもこの舞台の企画・原案の秋元康さん自体、アイドルをプロデュースし、総選挙や〇期生、研究生といったシステムを作っていた。総選挙は物凄くよくできたシステムだと思う。たった1曲のセンターを決めるためにファンにお金を捻出させる。

どこまでお金を出せば自分の推しを選抜入りさせられるのか。ファンの闘争心を煽りたて、吐き出させます。

 

ホストクラブのシステムに似ていると感じます。

担当をたった1か月の王様にさせるために高級酒を頼む。その大半はヘルプに飲み干されてしまうか、飾りとしてテーブルの上に置かれるだけ。

毎日、毎日、その日の営業で最も売り上げた者が発表されるから、そこである程度順位の目星はつく。そして月内の最終営業日、順位を発表し、ナンバーに入ったホストにコメントさせる。

選挙の最終日まで金を吐き出せ続け、ランクインしたメンバーたちにコメントさせる。

アイドルもホストも、実在する人間を使って行う、資本によるゲームの駒みたいだなあ、と思います。

 

昨今のオーディション番組や一部のコンテストでは、資本のほかに、SNSでの拡散度合いも加味されているけれど、これも同じことでしょう。投票や拡散と言った行為で、推しのことを考え続けさせる。考える時間が長ければ長いほど、人はそれに執着するようにになる。

「私が/俺がNo.1にしてあげる」。

なんて気持ちのいい言葉でしょう。私が育てた。私が成長を見守った。私が。

 

オタクにそういうシステムを与えながら、オタクを挑発する。

「僕のファンがサイリウムやうちわを振っちゃったりなんかして」「事務所の力で主演になった」

 

秋元さんはパンフレットにおいて、脚本が当て書きであることを明言しています。繊細で大胆なジェシーくんの魅力を際立たせる、だけではなく、ジェシーくんのファンに対して、自己批判を迫ろうとしているのでしょうか。

 

ただ、これはこちらが過敏に反応しているだけなのかもしれない。

秋元さんは以前、こんなことを言っています。

AKBの女の子たちは、応募した時点で、格差社会の芸能界に入ろうと思ったんです。AKBに受かる受からないという格差があり、入ってからもヒエラルキーがある。(中略)だから、選挙で格差をつけるのはかわいそう、という話にはならない。

[『AKB48の戦略!秋元康の仕事術』秋元康田原総一朗共著、アスコム刊、2013]

 

人に手を差し伸べるところ

①親殺しのモチーフ

この劇は、親殺しのモチーフが使われていました。
親殺しのモチーフはそれこそ『オイディプス』の頃から青年の通過儀礼として描かれるものです。
幹事長を殺した犯人は幹事長の息子であるヨシオでした。

老齢の大場というキャラクター(劇中劇ではジョージ2世の息子役)が幹事長の息子(以下息子)にチケットを贈り、息子は父殺しをしたその足で観劇に赴きます。
幹事長は息子に政治の道を期待していましたが、息子は役者を志していました。ナイフを忍ばせ、「役者の道を許してもらえないなら、いっそ僕を刺してくれ」と言うつもりで。それが手違いで、息子が幹事長を刺してしまった。

 

親殺しは通過儀礼です。一度父母を否定し、乗り越えることが成人になるための必要事項。
手違いとはいえ父を刺す、ということが、息子の成長の第一段階でした。

同時に、誠也と大場に目を向けると、誠也の父は誠也15歳のときに亡くなっている、という設定。
思春期で両親に逆らいはじめている頃でしょう。しかし、父を乗り越えるプロセスは未完成に終わってしまう。乗り越えるべき父がいなくなってしまったのだから。

そして大場にとっても、誠也の父は(親ではないものの)乗り越えるべき存在でした。
大場はアドリブが非常に不得手で、完璧に劇を造り上げたい人間だ。寸分の狂いも許せない。
それに対して誠也の父はアドリブも入れる。器用に立ち回り、脚本・演出・出演なんでもこなす。
相容れるはずもありません。しかし、この日演じられた『ジョージ2世』で大場は誠也のアドリブを受け入れ呼応する。

誠也にとっても大場にとっても、幹事長の息子の親殺しは、自分が乗り越えるべきものを乗り越える通過儀礼だったのでしょう。

 

②「アマリリスの花」のこと

さて、白川幹事長を殺害した犯人である、白川幹事長の息子・ヨシオについてもう少し考えたいと思います。
「男性に恋することもあるくらい純粋で、まるでアマリリスの花のよう」と評される彼。

彼はステージには一度も出てきません。
関係者席のあたりに向かって誠也くんと大場さんが呼び掛けることで、その存在がなんとなく関知されるのみです。

 

恐らくここで出てくる「アマリリス」は、よくアマリリスと混同される「ベラドンナリリー」のことではないかと思います。

マリリス花言葉は『おしゃべり』『誇り』『輝くばかりの美しさ』『虚栄心』。
ベラドンナリリーは『ありのままの私を見て』『私の裸を見て』『沈黙』。

 

父に望まれた道ではなく、演劇の道で身を立てたいと願う息子。男性に恋する自分のありのままを知って認めてほしいと願う息子。

受け入れられない絶望は、どれほどのものだっただろう、と思います。
沈黙を破って、ありのまま、裸の心を剥き出しにして父とぶつかろうとした。けれど父は、息子の裸の心を受け入れることができなかった。

 

父にも父の論理があって、政治の道を歩んでほしい、普通に結婚して、普通に子どもを育ててほしい、というのは親として願うところなのは理解できます。
自分は政治の道で幹事長まで上り詰めたのだから。離婚したとはいえ、子どもと交流があるのだから。
自分と同じ道を、自分よりうまく歩んでくれたら。

「もっと話し合えばよかった」、もちろん違う人間だから、わかりあえないことがわかるだけかもしれない。けれど、「貴方とぼくは決定的にちがうのだ」と早いうちにわかれば、そして父の理解を諦めることができれば。彼は父親を刺さなかったかもしれないなあ。

 

諦めるのも諦めないのも、どっちも同じくらい辛いよね。
ヨシオはきっと、上手に諦められるほど大人でも、親に従えるほど子どもでもなかったから刺してしまったのでしょう。

 

そして、親を差したその足でヨシオは劇場に赴きます。

『ジョージ2世』を観るために。

 

「男性に恋すること"も"あるくらい」、なら父親を刺さずに済んだのでは、と思うところもあるから、大場さんは敢えて"も"を入れたような気がするな……。
(だってそれは、ある程度以上の年齢の人なら"若気の至りでいつか女に落ち着くだろう"、ととらえそうだもの。)

 

③不要で不急なものなのか?

ヨシオが父親を刺した後、劇場に足を向けたのは、果たして「不要不急」だったのでしょうか。父親を誘って一緒に観るはずだった『ジョージ2世』。
劇中で本来演じられるはずだった『ジョージ2世』はこういう筋でした。ジョージの息子であるフレデリック・ルイスは、父王ジョージ2世に失望し、暗殺を企てる。しかし父の真意を知った彼は、最後には父に己のやったことを詫び、自ら命を絶とうとする。

ヨシオは自分とフレデリック・ルイスを重ね合わせていたから、この劇を父親とともに観劇したかったのでしょう。これは大場からの言及でもわかります。
演劇で生きていきたい、という決意を伝えたあと、自分の心情を理解してもらうために。

 

演劇やライブは、このコロナ禍で、「不要不急」のものと位置付けられました。
けれど、ヨシオにとっては急を要するものだったに違いありません。

 

すでに20代も半ばを過ぎ、もし父に認められたとしても、役者としてはかなり遅いスタートになる。役者になるという夢だけではなく、自分のセクシュアリティに関する部分までもきっと彼は言おうとしていたでしょう。
今までぶつかるのを避けてきたけれど、もう正面切っていくしかない。何かを成し遂げるには、人生はあまりにも短い。

 

この劇を一緒に観ることができたなら、自分を否定する自分も、肯定する自分も関係なく、ただそこにあるだけの自分になれる。ただそこにあるだけの親子になれる。

お互いの立場や想いを踏まえて、しかしその上でただ純粋な気持ちだけをぶつけ合う。


父親が理解してくれる、という希望を持っていたはずのヨシオは失意の中、縋るような思いで劇場に足を踏み入れ、父親とともに観るはずだった劇をたった一人で観る。
父に認められなかった自分自身を認めてやるために。

誠也と大場が台詞を変え、ヨシオに対して語りかけたことは、ヨシオにとって救いになったのか。私にはわかりません。
罪を償い、家庭を築く。幸せになる。

 

ヨシオが罪を償えたとしても、日本にいながら役者になることは難しいでしょう。多くの場合、犯罪者は実名で、顔写真も公開されます。幹事長の息子が幹事長を殺した、しかも(実際には縋るような思いだとしても)そのあと呑気に観劇していた、なんて、自分がワイドショーの関係者なら、こんなにおいしいネタはありません。

誠也と大場は、役者になるということへの言及はしませんでした。もちろん、『ジョージ2世』という劇の性質上、フレデリック・ルイスが望んでいなかったところには言及できなかったということもありましょうが、そうした現実を踏まえて、言えなかったのだと思います。

ただ、救われなくても、自分のことを助けようとした人間がいる。その事実だけはヨシオの裡に残るような気がします。

 

終わりに

 

ここまで書いて、改めて、果たして人が救いを求めるものが「不要不急」なのか、と思います。

このコロナ禍で、日本の自殺者数は2009年以来11年ぶりに増加に転じました。下記の記事では原因として「経済苦」「孤立」が挙げられています。

www.nikkei.com


また、今年、小中学生の自殺は、7月時点で年間最多となった昨年を上回るペースで増えています。こちらでは「家庭内で息苦しい思い」をした可能性を指摘しています。

www3.nhk.or.jp

経済苦や孤立、家庭内での息苦しさといった要因で人は自ら命を絶ったりします。でも、エンターテインメントはそうしたものから少しだけ抜け出すために力を貸してくれるはずです。
ほんの少しの時間だけでも、生き延びるための避難場所となってくれるエンタメ。

 

劇中でも、コロナ禍について何度か言及されました。この劇は、「不要不急」とされたエンターテインメントからのカウンターパンチなのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

百年待っていてください。金曜ロードショー『風立ちぬ』を観た。

金曜ロードショーで『風立ちぬ』を放送していたので観ました。

メインテーマの、トランペットの音を聴きたかったから。

 

私の心に残ったのは、流れる時間の鷹揚さでした。

菜穂子が結核を必ず治す、と言ったときの「百年だって待つ」という二郎のことば。

カストルプと菜穂子の父との会食のシーン。

 

思えば戦争へと進み、そして戦局の悪化があり、敗戦、という映画の時代背景がおおらかな筈もないにも関わらず。

実際映画には特高ヒットラーの存在、海軍に協力せざるを得ない現実が描かれている。

けれど、どこかゆったりとした、高潔な時間の流れを感じたのです。

 

きっとジリジリとした戦局の悪化というところではないところで、時間が流れている。

菜穂子がただそこにいる、二郎がただそこにいる、その事実が彼らを彼らの過ごした"現代"から切り離したのでしょう。

 

黒川夫妻の肝の据わりかたも、時間を静謐なものにする条件だったでしょう。

いきなり婚約者と連れ立って、すぐにでも結婚しようとする勢い込んだ若者の決意を前に、その意気を形にしてやろうとする。

 

もしかしたらおおらかさとは、胆力のことを言うのかもしれない、と思いました。

私が引き受ける。何もかも。

 

百年待つ。待たせるあなたの命を、私が引き受ける。

そういった度量が鷹揚さを産み出しているのではないかと。

 

そして、これをいうと反発もあるかと思うのですが、相手を引き受ける、ということはある種の身勝手さも含むのだと思いました。

 

離れとはいえ、結核患者の菜穂子を連れてきて生活する二郎は明らかに黒川夫妻の健康に気を回せていないし、特高から二郎を匿う黒川氏は「会社の役に立つ限りは」と彼を庇うための条件を口にする。

 

この身勝手さを赦しあうことが、他者の尊重なのかもしれません。

 

とはいえ勿論、すべてが身勝手な人間は赦されないでしょう。会社においてその才を発揮して尽くしている二郎があってこそ二郎の身勝手は赦される。黒川氏の公私を混同させまいとする姿勢が見えかくれするから赦される。

 

このおおらかさを自分はどこにやったのだろうと思います。

そういえば、映画から話はそれますが、好きな曲の1つにメガマソ『ビューティフルガール』があります。

どれだけ長くて、虚ろな時間の中、
あなたは私を見守ってくれたかしら。

今の弱さ、私が庇う番で。

「ごめんね、強くなくって」あなたが揺らいでも、

着いていく、誰にも邪魔させない。

「無理だよ、自分なんて」あなたが動けずに

いるなら、背負ってでも連れて行く。

 

相手を引き受ける愛のある種の身勝手さを感じます。

けれど相手が最終的に救われるのであれば、一種崇高なものになるような気もするのです。

 

つまり、身勝手さと崇高さは共存する。というか、身勝手さから崇高さが発生することもある。

 

菜穂子はうつくしいところのみを見せたいという理由で前置きもなく療養所に姿を消してしまいますが、それでも二郎は百年待つのでしょう。

菜穂子を引き受けたのは自分だから。

高僧のように思索に耽りながら、菜穂子を百年待つ。夢に出てきたカプローニ伯爵は"二郎にとってのメフィストフェレス"である、と宮崎駿監督が口にしています。悔恨と満たされない欲望を夢に見る二郎は、確かにメフィストフェレスを召喚したのかもしれません。

 

ファウストは幸福な時間が留まってくれることを祈りますが、二郎は菜穂子に「生きて」と請われます。

 

二郎の夢の中なのだから、実際に菜穂子がそう思っているかはわからない。けれど二郎は、菜穂子の思いを己のものとしなければならない。だからきっと、生きて「百年」が流れるのを待つのでしょう。

 

 

 

 

「フィギュア」とか、アイドルとか。

〇この記事にたどり着いた方へ

ご覧いただきありがとうございます。
自己満足で書いているブログです。PLAYLISTの大我さんを見て、歌詞を読んで、それからここ最近の雑誌やら何やらを見て思っていることをつらつら書いているだけです。

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SixTONESについてというよりは「アイドル」とは?ということの方が比重が大きいです。

 

 

〇本題


1.「フィギュア」MVの少年―球体関節人形

『フィギュア』のMVは、ひとりの少年を主人公に作られている。年の頃まではわからないものの、おおよそ中学生くらいだろうか。赤い眼に金~ブルーのグラデーションの髪色、半そでに臙脂のベストを着て、スカーフを巻いている。
このMVの第一印象は、「球体関節人形がいる」ということだった。
「フィギュア」といったとき、関節が可変なものも、固定されているものも存在している。この少年の場合、各シーンにおいてポージングが変更されているから、関節可変なものと見做してよいだろう。また、各シーンにおいて、背景が動いても少年のポージングが変わらないことから、実際には生命を有さない存在であるとしても許されるだろう。
(もちろん物思いに耽って動かないということもあるだろうが、この曲に関しては生命をもたない有機体としてのフィギュアであると考えたい。)

球体関節人形、ドール。日本だとそこから発展したスーパードルフィーが有名だろうか。

dollfie.volks.co.jp


上記のサイトを見るとわかるのだが、ドルフィーは未完成であることが売りである。
自分の思い通りにパーツをカスタムし、オリジナルのお人形へと仕立て上げる。
ドールは繊細なので、仕立てて、手に入ったあとも、手入れをしてやらなくてはならない。

そして、そのドールの文化において興味深いことがある。
新しいドールを自宅に迎え入れる際、「お迎えセレモニー」を行うドールオーナーが少なからず存在することだ。
その儀式性についてはサビさんのブログが詳しいと思う。

note.com

人形たちを「人間」に見立て、人形を「お迎え」する。以下、サビさんのブログから引用する。

「お迎えセレモニー」には人形が道具としてではなくその目的主体として存在するという特殊性のために、「人『遊び』」というメタ・メッセージが内在しているということである。参加者には「これは聖なるものであり、真実である」というメタ・メッセージの下で「儀礼」と認識しつつも、どこかで「遊び」(嘘)ではないだろうかという疑義が不可避的に生じている。「お迎えセレモニー」の場では、「人」の儀礼のパロディのような疑似的な「儀礼」が行われ、参加者に「儀礼」で「遊んで」いるかのような不思議な感覚をもたらすのである。

 

この構造は何かに似てやしないだろうか? アイドルを愛でるうちに、〈「これは聖なるものであり、真実である」というメタ・メッセージの下で「儀礼」と認識しつつも、どこかで「遊び」(嘘)ではないだろうかという疑義が不可避的に〉生じてはいないだろうか。
つまりは私たち自身がアイドルでお人形遊びをしてはいないだろうか。
ドールを受け入れるのとは反対の手順ではあるものの、おなじ手続きをしてはいないだろうか。人間を偶像化する遊びをしてはいないだろうか。

儀式、という点であれば、私たちもいわゆる「祭壇」をつくる。アイドルたちの公式写真を飾り、表紙を飾った雑誌を飾り、ときに供物のように食品をその前に捧げる。捧げた食品は、捧げたファンが消費する。日本の神道の場合、儀式のうちに神に捧げた供物を食することを「直会」といい、これは神と人とが一体化するために行われる。

www.jinjahoncho.or.jp

つまり日本のアイドル文化とは、言葉こそアイドルと、西洋のものを借りてきているものの、本質的には神道のやり方に則って、偶像たちと疑似コミュニケーションをとっている。

あるいは日本的な神仏習合八百万の神的な価値観も影響しているのかもしれない。
私たちは思いがけない事態にあったとき「神様助けて!」と思うし、チケットの神頼みをする。チケットが当選したら、「〇〇くん、当たったよ!会いにいけるよ!」なんてSNSに書く。そこにいない誰かに、超越的な存在に、語りかける。

そしてアイドルは未完成であると同時に完成されたものでなくてはならない。
未完成なものに聖性を見出だし、人形⇔人間を行きつ戻りつさせる。

私たちは球体人形を愛でている。
「代替不可であれよ」と願われるフィギュアは、さしずめ自分好みにカスタムしたドールであるとも云えてしまう。

 

2.振り付けについてーピノキオ

さて、『フィギュア』の振り付けについて。
"操り人形"だと思ってしまった。操り人形といえば、『ピノキオ』が思い浮かぶだろうか。
ディズニー版の『ピノキオ』は確か概ねこんな話だった。

子どものいないおもちゃ職人ゼペットは、操り人形のピノキオが自分の子どもになるように願う。その願いは聞き入れられ、ピノキオは生命を得た。
世間知らずなピノキオは、詐欺師の狐とその子分のウサギに唆されてサーカスに売り飛ばされてしまう。

糸のないのに動く、物珍しい人形としてピノキオは人気を得た。ある日、家に帰ろうとしたところ、怒ったサーカスの団長に捕らえられてしまった。
どうにか抜け出すも、詐欺師の手によって今度はどんな悪事も許される「プレジャーアイランド」に連れていかれてしまう。ピノキオは、悪いことは愉しいことだと認識させられていく。


"あなたまだ十分こどもでいいんだよ"と諭される少年、"汚れていくだけの街"で"隠してた心はもう見つからない"少年はあまりにもピノキオとイメージが重なってこないだろうか。


さて、このピノキオ、最終的には人間の子どもとしての生命を得るわけだ。だが、その生命ですら、"正しい大人"が考える"正しい子ども"としての振る舞いをしたからこそ得られたものである。

具体的に言えば、ピノキオを心配して捜索に赴き遭難したゼペットを助ける、という善行。
もし仮にピノキオがゼペットの救助をやり遂げなければ、彼は人間の子どもとしての生命を得られなかっただろう。
人の子どもとしての生命すら、そもそも大人の都合によって欲されたものなのである。

善悪、ということは抜きにしても、おもちゃ職人である、ということはつまりゼペットは商売人であり、貨幣経済の枠組みにある。映画を見る限り、ともに工房を営んだり、その技術を継承したりする相手もいない様子だ。長い間ひとりで立ちつづけるために、おもちゃを求める相手との駆け引きは必須だろう。
そもそもゼペットは何故子どもを願ったのか? ただ寂しさを埋める慰みのための子どもであっても、技術の継承者としての子どもであっても、どちらにせよピノキオは大人の都合によって作り替えられてしまった存在に他ならない。

ピノキオの話がずいぶん長くなってしまった。
『フィギュア』に話を戻すと、SixTONESの姿は本当にピノキオよろしく、糸のない操り人形のようだと思う。
サーカスの舞台に立った6体のフィギュアは、物珍しさに引き付けられた客の前で嬉々として踊る。

操り人形は、当然、人間の子どもよりも軽い。それを表すかのような軽やかなステップ、大人が子どもに求め得る無邪気さ、首を振り揺れるかわいらしさ、どこをとっても「可愛いお人形」の総体だ。

「可愛い」の今日的な意味のひとつは、"自分に害をなさず、心をなごませるもの"に附される感情だ。

news.yahoo.co.jp

上記記事より入戸野宏氏のコメントを引用する。

敵や嫌いな子というのはかわいくないですよ。なぜなら自分に危害を加えるんじゃないかと思ってしまうから。逆に危害を加えないことがわかったら、かわいいと思えるわけです。

自分に仇なすものではないから可愛いわけで、自分の想定外のものは可愛くないのである。
実際に鋭利かどうかは置いておいて、自分との関係性において鋭利さを切り取られたものこそが、「可愛い」ものとして認められる。

だから、思い通りに操られる『フィギュア』は「可愛らしい」振り付けでなくてはならない

3.少年と虹色

次にPLAYLISTでSixTONESの着ていた衣裳を考えたい。SixTONESのなかで唯一、大我さんだけが襟のない服を着せられていた。同時に、彼だけがスカーフを巻かれていた。
MVの少年を思い起こすとき、少年もスカーフを巻いていた。
襟のある服は、比較的フォーマルな場面で用いられることが多い。対して襟のない服は、カジュアルな場の衣服としてとらえられる。

もちろん、大我さん以外の5人の服装が大人らしいものかと言われると、そうでもない。基本的には比較的柔らかい素材であったり(慎太郎くんの羽織とか)、ひらひらと揺れる要素があったり(ジェシーくんの肩の布とか)と、こちらもやはり少年らしい感じがある。


そして、5人の服を並べたとき、私は虹を思い浮かべる。
虹は様々な文化圏で、神や境界といったもののモチーフとして扱われる。

たとえば、創世記9章12~16節では、神との契りの証として登場する。

あなた方ならびにあなた方と共にいるすべての生き物と、世々永久にわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、私は雲の中に虹を置く。これは私と大地の間に立てた契約のしるしとなる。私が地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現われると、あなた方ならびにあなた方と共にいるすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。雲の中に虹が現われると、私はそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。

この契りは、人間が神に供物を捧げるのではなく、神が神自身に与えるという構造になっていることに留意したい。
供物はカインとアベルのことを思い起こせば、争いのもとともなる。人間は実に自己中心的な生物であり、神は善良な世界を創るためにノアの一族のみを選び洪水を起こした。
そして水が引けたあと、神は虹を発生させることによって己の心を落ち着け、今後は洪水を起こさないようにすると誓う。

虹は人間への失意の象徴である。

そういえば、虹で思い出される『オズの魔法使い』のドロシーは、初めは"どんな願いも叶う夢のような国があるから、そこに行きたい"と考えていた。

Somewhere over the rainbow
Way up high
There's a land that I heard of
Once in a lullaby
(虹の向こうの空高くどこかに かつて子守唄で聞いた国があるはず)

Somewhere over the rainbow
Skies are blue
And the dreams that you dare to dream
Really do come true
(虹の向こうのどこかに真っ青な空で 信じてた夢がすべて叶う場所がある)

Someday I'll wish upon a star
(あたしはいつか星に願うでしょう)
And wake up where the clouds are far behind me
Where troubles melt like lemondrops
(そうして目覚めると雲は遥か彼方に 悩みはレモンドロップのように溶けだしていく)
Away above the chimney tops
That's where you'll find me
(煙突よりもずっと上のほうで、あなたはあたしを見つけるの)


しかし彼女は冒険のおわりに、"家が一番良い"と結論づける。外の世界に期待を抱かなくなるのである。

これはともに冒険したカカシ、ブリキ、ライオンと比しても面白い。ともに冒険をした三者は、もともと自分の家を持っていない根なし草だったということもあろうが、自分が異邦人として入っていった地をそれぞれ統治することになる。
冒険のうちに、オズの偉大な魔法使いが詐欺師である、と知ったことも大きいのではないか。つまり、「家の外≒他者は信じきるに値しない」、というメッセージを受け取ってしまったのではないか。

もちろん、北の魔女や、ともに旅した三者は信じられる存在であるものの、王国の統治者が詐欺師である、というのは少女の失望を引き出すのに充分だろう。


同時に現代に目を向けると、虹は「多様性」「共存」のモチーフにもなっている。
文化によって色の数は異なるものの、様々な色を含むことが、人種や民族、セクシュアリティを越えた理解の象徴になっている。

 

こうしたことを踏まえたとき、虹色は、少年の失意、そして信じられるのは自分(たち)自身のみである、その上でどのように折り合いをつけていくかを示したい、という言外のメッセージを受け取るのは些か穿ち過ぎか。

つまり、
①少年=裏切らないものを探す神、と考えた時には、裏切られそうになる度に自分の周囲に多様な個性を持った虹を産み出すことで平安を保っているのではないか。
②少年=裏切らないものを探す子ども、と考えると、「家の外≒アイドルではない世界」は危険である、というメッセージを発することで、彼らを「家の中≒一般的なイメージのアイドル」に押し込めようとする力があるのではないか。

③そして、現代的な意味を踏まえるのであれば、多様性を受容し、従来のアイドル像との共存を模索するSixTONESのたおやかな闘争の表れでもあるのではないか。

 

ジャニーズ事務所がつくりあげるアイドルは、永遠の少年である。誰かの空想上の息子であり、初恋の相手であり、慈しむべき存在だ。
ただしそれは、彼らが他者からの欲望の産物を演じている場合に限る。

まるでピノキオの父たるゼペットがそう望んだように。まるでドールをカスタムしていくときのように。


そう言った風に望まれる「ジャニーズのアイドル」が"ショーウィンドウに並ぶ僕ら/代替不可であれよフィギュア/あるがままで"と唄うことで、一抹の不安がよぎる。


脱却を図りながらもジャニーズという呪いに捕らわれていた彼らの一瞬を切り取ったのがこの『フィギュア』という曲なんだと思う。
そしてその呪いは、彼らがジャニーズである限り、薄まることはあっても解けることはないだろう。

大我さんがあの衣裳を着たのは、その「ジャニーズのアイドル≒フィギュア≒欲望」の代表格としてだろう。そしてその周囲にいる彼らの衣裳も、それを補強するものだろう。

 

4.代替不可であれよフィギュア

 

ところで、私は彼らのJr時代を、リアルタイムでは知らない。

けれど、様々な人に語られる彼らや、まだ残っているJr時代のYouTubeの動画、バックナンバーが手に入る雑誌、そういったものを見ていて、そして思う。

 

"ジャニーズをデジタルに放つ新世代"

目まぐるしく変わる技術の革新、それに伴う人間の行動の変化、そしてそれらがあっても変わらない人の欲望。それらとどう相剋していくか。

彼らに課せられている至上命題はそこにあったのではないか。

 

今や多くのジャニーズがYoutubeInstagramTwitterなどの比較的新しいメディアを横断した企画を打ち、世界のトレンドを意識した音楽を発信している。

これは本当にありがたいことであると同時に、危険なことでもあると思う。

私たちは、レスポンスこそなくとも、簡単にアイドルたちとのコンタクトを取れる時代に生きてしまっている。お人形遊びは、前よりも容易く行われるようになっている。

 

少女マンガ家の萩尾望都氏は言う。

講演会などで「マンガ家になるためにはどうすればいいんですか」とよく聞かれます。そういうときに必ず答えるのは「自分の作品を身近な人に読んでもらって、相手の意見を聞くように」。それから「決して相手の意見を聞かないように」。ホントに両方、必要なんですよ。どちらに偏っても、ある「穴」に落ちてしまう。

(中略)

読む人がすべてを理解してくれるわけでもないし、トンチンカンなことを言ってくる人もいるじゃないですか。それに振り回される必要もないですよね。

といって「私の描くものは私にしか理解できないわ。一〇〇パーセント面白いわ」と思っているのでは、プロになるのは無理だし。本当に一〇〇パーセント面白いならかまわないんですけどね。

[『私の少女マンガ講義』著者 萩尾望都/インタビュー・構成 矢内裕子、2021年7月、新潮社文庫]

 

私たちはアイドルに向かって、どんな意見も言える。そしてアイドルたちも、どんな意見も受け止められる。

その中にあって、自分の芯を保ちつつも、柔軟に受け入れること。どちらがなくても成り立たない。

そういえば『MG no.6』(2021年7月、東京ニュース通信社)で、『フィギュア』を作詞作曲されたくじらさんは、こう言っていた。

エンターテインメントやそれに隣接した世界で活躍しようとしている人は数字や露出度、好感度によって態度をコロコロと変えていく…。何者かになろうと足掻くことの大変さ、その道中で人格を形成していく難しさなどを書きました。

僕らは皆裏切らないものを探して生きているのだと思います…。

ファン、周囲の仕事仲間、それ以外の人。インターネットがインフラとなっている今、「何者かになろうと足掻く」葛藤は、前時代よりも増大しているだろう。

生きているうちに触れられる社会の範囲は広がり続けている。対して自分は自分の形をしたままである。彼らに対して「態度をコロコロと変えて」いった人たちですら、自分が何者になれるのかという迷いの中にいたのかもしれない。

 

今アイドルに求められているのは、こんな時代だからこそ、「俺らは俺らでしかないし、誰も俺らにはなれない」という当たり前の事実を示し続けることではないのか。

ジャニーズのアイドルであり続けているという事実。

誰かの欲望を満たす装置でもあるけれど、誰かの欲望だけに振り回されるわけではないという事実。

 

現代のアイドルは恐らく、すべての迷いのある人々のロールモデルであり、アイドル自身の所有物である。

 

先に述べた"ジャニーズのアイドルという呪い"は解くべきものではなく、どのように御していくかを考えるべきものだ。

アイドルである自分、何者にもなりようのない自分を認めていったうえで、御しがたい自分や世界の存在も眺め、立ち位置を定める。決して『フィギュア』で遊ぼうとする人間の所有物にはならないよう、しなやかに生きる。

 

だからこそきっと、この曲は「エールソング」として位置付けられるのだろう。

紙の本の話

読めていない本がある。たくさんある。
床の上を占領し、いつになったらページを開くんだと問いかける彼らそれぞれにわずかな罪悪感を持ちながら、眠りにつく。


今日、また、本が増えた。
学生のころに買った『走れメロス』(角川文庫)と『人間失格』(集英社)を買い直した。


なにか忘れていることを、思い出せそうな気がした。


走れメロス』に収められている「駆け込み訴え」を、紙の上で読みたくなった。
人間失格』のあの自意識を、懐かしく思った。

 


思えば、本は、いつだって静かだ。雄弁に語り、心を揺さぶり、ときにはBGMを伴う。けれど、静かだ。
本そのものは何も語らない。


語るのは、そこに書かれた文字だ。
さらに言うなら、文体だ。
そしてその文体を扱う筆者だ。


筆者自身が身体をいくら透明にしても、固有の文章はその形を再現しようとする。

日本語のルールに則って、ときにはルールをはみ出して、ことばが踊り出す。


読書は楽しい。
本は開かれるのを待ちながら、そこにただただ佇んでいる。
とうとうベッドの上を占領し始めた本の姿を眺める。


置いてけぼりにしてしまった傘のように忘れてしまったわけではない。
本は群れない。孤独である。
誰かがその身体に触れるまで、おとなしく待っている。それも、可哀想に思われたくてそうしているのではない。
いつか来る出会いを確信して、そこに凛と佇んでいる。


紙の本を読む楽しみのひとつは、孤独なものが、孤独を受け入れているものに出会うことなのだと思う。

 

アイドルである彼らの共犯者。演劇論から考える。

ジェシーくんの舞台も、樹くんのドリボも、どちらもおめでとうございます。

 

7/10のSixTONESANNを聴いていて、演劇やライブについてふっと思ったことがあったので覚書としてこの記事をあげます。

珍しくなんかの役に立つと良いなあ。と思ってます。

※私が大学で学んだことをベースに書いているので、演劇の要素として他の切り方もあるとは知っています。

 

演劇の三要素など

みなさんは演劇を観に行くことはありますか?  私はそんなに行く方ではなかったですし、緊急事態宣言以降はぱったり行くのをやめてしまいましたが、また機会があれば行きたいと思う舞台がいくつかあります。

 

演劇には、3つの要素が必要であると言われます。(文献によっては、戯曲ではなく劇場が入ることも)

  1. 俳優
  2. 戯曲(脚本)
  3. 観客

俳優と戯曲は言わずもがな。では観客はなんのために必要なのでしょう。

 

例えばその場に観客がいなければ、役者は何度でも台詞を間違えることができます。そこで行うはずではなかったアクションをしてやり直すこともできます。

しかし、観客がいる限り、そのようなことはできない。想定外の事態が生起したときに俳優がどのように対応するか、その一回性を観るのまで含めて、私たちは演劇に参加しています。

 

その意味で、映画やテレビドラマは演劇とは異なります。

その場で生まれた反応に即応すること。脚本はあっても、即興の要素が多少含まれるのが演劇であります。

 

音楽のライブは映画/演劇どちらに近接するかと言えば、演劇だと考えます。

 

例えば歌詞が飛んでしまっても、衣装の一部にトラブルがあっても、演者はそこから離れることができません。

構成の仕方も極めて演劇的だと感じます。

 

安部公房椎名麟三武田泰淳福田恆存は対談の中で、演劇と映画・小説の違いについて下記のように語っています。

(前略)

福田:小説の発想と戯曲の発想と違うんだけれども、一番大きな違いっていうのは、椎名さんがいったように(※引用者註/「自由の彼方で」という小説を芝居にしたときの苦労)、個人の意識は小説は書いて行く。戯曲の場合は外からしか書けない、視覚に訴えるものしか書けない、ということが一つ。もう一つは、時間の展開の仕方が根本的に違う。(中略)戯曲は絶えず現在の形で時間が展開する。もちろん過去には戻れない。(中略)絶えず現在現在で進む。その二つが小説と一番違う点じゃないか。(中略)ぼくは映画と戯曲は根本的に違うと思う。むしろまだ小説と映画の方が近い。

安部:映画と戯曲の相違点では、時間よりもむしろ、空間の処理の仕方だね。時間的には戯曲とシナリオが近い、空間的に見れば小説とシナリオが近い。戯曲の空間的特徴としては、第一にむろんあの舞台の制約だけど、もう一つ、そこに現わされている対象が、完全に意識的に再構成されたもの以外はないという点ですね、全部一応人間の手がかかっている……。反対に、映画や小説の場合は偶然が自由に入り込んでかまわない、というよりそれが特徴だ。

(中略)

武田:芝居は不自由だからね、空間的にも時間的にも。

〈「戯曲をなぜ書くか」初出『新劇』1955年9月号、『安部公房全集05』(新潮社1997年12月発行)より引用〉

 

この不自由性を了解して、私たちは演劇やコンサートを観に行く。

そうした要素を折り込んで観てリアクションするのが、観客の役目です。

(もちろん、コンサートと演劇鑑賞ではリアクションの仕方も異なるので、一概におなじとは言えないのですが。)

 

配信と会場と

さて、このコロナ禍において、いくつもの配信ライブが行われました。

配信ライブは演劇と映画、どちらに近いでしょうか?

 

私はどちらにも近くないと思います。

観客を想定し、ノンストップで行われるという点においては演劇的ですが、その場において観客は実在しません。

そして、映画のように何度もリテイクを出せるわけではありません。

 

強いて言うなら、生放送のバラエティー

画面越しの観客に向かってアクションが行われ、ショーを止めることもできませんが、実際の観客はそこにいないので、場の空気は観客によって醸成されることはありません。

 

そして、何より大きいのは、配信では秘密がつくりがたいこと

演劇は閉じられた劇場の中で行われるのに対して、配信は世界中どこにいても、環境さえ整っていれば観ることができます。

つまり、会場にいた人間のみに与えられるサプライズは実行しがたく、またそれを広める人間の「言いたい!」という欲求や、そこに反応して「次こそは……!」「行けば良かった……!!」という欲求を掻き立てづらい。

 

また、劇場はブザーが響き、客席が暗くなることによって、それまでの時間と演劇に没入する時間とが区切られますが、配信ではそれらは区切られません。

自発的に部屋を暗くすることで、擬似的にそれまでの時間との区切りをつくることはできますが。

 

ただ、擬似的時間と空間は、あくまで疑似です。部屋のそとからは救急車のサイレンが鳴り響いているのが聴こえるかもしれない。なにかつまみながら観ることができる。隣にいる友人に話しかけながらの観劇も可能である。

 

音楽や演劇の普及という点においては効果的であるものの、観客を没入させ、共犯者をつくるという点においては、やはり劇空間が必要なのではないかと考えます。

 

秘密の造成によって起きること

先ほど、観客のことを「共犯者」と書きました。

なぜ観客は共犯者なのか。

 

それは、配信には秘密がつくりづらいことの裏返しで、劇場での観劇や、ライブ会場でのコンサートへの参加は、その場にいた人間のみに与えられる秘密があるからです。

 

例えば、カメラが入っていなければ、演者はどんな仕草をしたか?  どんな表情だったか?  どんなアドリブをしたか?

その場に行けなかった人間は、何もかも、知り得ない。

いくらその後にSNSなどで情報が流れてこようが、観客ではない人間は、その時間に起きたことを実感として手に入れられることはないのです。 

 

そして、秘密を共有した観客はどうなるか。

閉じた、不自由な世界で演者の発した言葉や動きを受け取ることで、その価値の高さをより強く認識する。

それも、日常から隔絶されていると感じる度合いが大きければ大きいほど、認識の度合いも大きくなる

 

これは個人的な経験から言うのですが、ヴィジュアル系のライブに行った時も、対バンよりもワンマンの方が没入性が高く、舞台に集中していたように思います。

それは、空間・時間がすべてたった一つのバンドとその観客のためだけにあるから

対バンではおおよそ30分~40分のステージが終わるごとに明転し、観客の出入りがあり、飲み物をドリンクチケットと交換する声が聞こえる。ビールの匂いがする。座り込んでメイクを直す人が見える。マイナーバンドであれば、物販にさっきまでステージで楽器を奏でていたメンバーが立っている。

現実が非現実を飲み込んでしまう感覚が勝ってしまうことがままありました。

 

ワンマンライブの場合、対バンとは反対で、演出上必要でなければ、基本的にはフロアは暗転したままです。

すると、なにが起きるか。

私=観客と、ステージ上で光を浴びる演者のみに集中できる。

あるいは私の存在すら、その場から消えていく。モッシュやヘドバンをしている間の観客は、個体ではなく、集合体として蠢く。

ステージ上で起きていることに反応しながら、自分に集中し、ついに自我をその場の論理に同一化させ始める。

 

ワンマンライブが終わると、明転して現実へと引き戻されますが、少なくとも会場にいる間は非現実と現実の狭間を彷徨います。

 

この現実ー非現実の狭間にこそ、私たちが演劇鑑賞に、コンサートに足を運ぶ理由があるのではないかと思うのです。

 

アイドル=幻想の共犯者

 

ここまで演劇やヴィジュアル系のライブに惹き付けて、話を進めてきました。

ここまで話してきた内容はすべて、アイドルのライブにも敷衍できることです。

 

つまり、ライブには演劇の3つの要素が必要である。

  1. 俳優=アイドル
  2. 戯曲(脚本)=セットリスト
  3. 観客=ファン

 

その時間は現在進行形でしか成立しない。後戻りできない。一回性の要素が大きい。

そして、没入できる秘密の空間でなければならない。

もちろんここまでで、十二分に私がアイドルを好む理由は説明できます。

 

そしてもう1つ、アイドルがファンに向けるものが、私たちをさらに一歩踏み込んだ共犯者にさせる気がします。

所謂ファンサ。(MCも広義のファンサと言って良い気がします)

自分のファンと認識した相手に反応して笑いかけたりことばをかけたりすること。

その瞬間、非現実の住民であるアイドルが、自分を非現実の住民に引き上げてくれる。

このときファンは、フロアにいる個体でも集合体でもなく、アイドルが見せる幻想の住民になります。

 

しかし、ライブが終われば、わずかばかり現実ー非現実を彷徨した後、いつもの生活に戻らざるを得ない。

 

この幻想は本当だったのだろうか。確実に自分の体験としてある。そしてそれがどのように行われるのか、観客である私と、アイドルである演者しか知らない。

その秘密の共有によって、ファンは共犯者としての絆をより強く感じます。

 

そしてアイドルの共犯者である私たちは、さらなる幻想を追い求めて、再びライブに足を運ぶのではないかと思うのです。

 

文学に向き合うときと、SixTONESを考えるときのはなし。

◯このブログにたどり着いた方へ

読んでいただきありがとうございます。

私のなかでぐるぐるしていることをだらだら書いているだけです。面白くはないです。

自分が自分のために書いてます。

 

 

◯本題

万人うけしないのは分かってて書いてるからいいや、と思うと同時にオタクとして正しくいきるのってむずかしいと思う今日この頃。

 

好きな作家っていますか。私は三島由紀夫が好きです。中学生のころに『禁色』に出会って打ちのめされ、大学生以降は『午後の曳航』と『近代能楽集』を繰り返し読んでます。

私は三島由紀夫のことは永遠に分析できないと思います。
あの文章は私にとってある種の信仰だから。
私の狭い世界中、どこを探してもあんなうつくしいリズムはなかった。あんなうつくしい景色はなかった。
子どもの、自分を防衛できないころに出会ったから尚更あの文章が私の一種宗教みたいなものになったのかもしれない。
あんなに鋼鉄のように鈍く光って、一太刀で急所にあたることば、しかもまるでそのことばとワルツを踊っているような高揚感。
いまだって三島の小説も戯曲も、ずっと私の根幹に、うつくしいものとしてある。

 

認識にとつて美は決して慰謝ではない。女であり、妻でもあるだらうが、慰謝ではない。しかしこの決して慰謝ではないところの美的なものと、認識との結婚からは何ものかが生れる。はかないあぶくみたいな、どうしやうもないものだが、何ものかが生れる。世間で芸術と呼んでゐるのはそれさ。

(『金閣寺三島由紀夫

 

誰かを説き伏せることばですら、こんなにも流れるように、ひとつの音楽になる。自分のことばとして三島のような文章が筆から溢れてきたら良いのに、私は永遠にそこにたどり着けないのです。


おとなになってある程度の防衛術をもったから、SixTONESの6人を全肯定して崇め奉るような接し方はできなくなったのかもしれない、とふと思います。
私が大我さんを好きだというとき、私がジェシーくんを考えるとき、私がSixTONESを聴いたりパフォーマンスをみたりするとき、彼らと自分との距離をはかって、そこに横たわる河の深さを感じます。

 

理解を拒む大好きと、理解したい大好きが自我を持ってる感覚。

人が記録をするのは、人間自身がモータルなものだからだろう、と思う。
きょう好きだったアーティストが、来年には好きじゃなくなるかもしれない。いきなり明日、別のアーティストに比重を傾けるかもしれない。

だから人間は記録をつけるのでしょう。留まらないものを標本にするために。

 

私は私なりに、SixTONESが好きです。
安部公房と同じくらいには。高校の教科書で『棒』に出会って、文学部に行って、まだ足りない、もっと知りたいと大学院まで行かせた公房と同じくらい。

だから、公房に対しての愛しかたと同じ愛し方をするだろうと思います。

文学に惹かれるとき、そこには私自身の問題が立ち現れてくる。きっとSixTONESに惹かれる私は、私自身の問題を彼らに投影している。

 

彼らを好きになっていることにも、わずかな寂しさがあるのです。

でもきっと、彼らを好きになることで、完全な幸福を求めようとは思わない。

 

幸福って、何も感じないことなのよ。
幸福って、もっと鈍感なものよ。
…幸福な人は、自分以外のことなんか夢にも考えないで生きてゆくんですよ。

(『夜の向日葵』三島由紀夫

 

満たされない自分があるから、彼らのことを好きになれる。

きっとこういう向き合い方は、オタクとして正しくないとされるのだろうとも思います。

 

でも私は、文学に向き合うときと同じトーンで、彼らのことが好きだと思う。満たされない容れ物である自分を埋めていく。そのためにブログを書いています。

 

文学を読んでいくときのやり方で彼らのことを考えることが自分にとっての一縷、世界をつなぐ糸になっているのだと思うのです。

私が泣いてしまった本のはなし

良い本を読んだと思ったから、感想を記録しておきたい。

 

 

教科書と規定されている本を読んで、泣くことはあるだろうか。

私はこの5月にはじめて泣いた。

 

古賀史健さんの『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』(ダイヤモンド社)を読んで泣いてしまった。

 

 

ーーーーー

一気に読むつもりで、本を開いた。

134ページで、ページを繰る手が止まってしまった。

それより前のページですでに、5月16日の私は耐えられないほどの衝撃を受けていたのだ。

 

何が衝撃だったのか。

「相手の話を『評価』しない」こと、そこから遡って「『きく』ということばを分解する」こと。

思考の癖として、私は取材者になり得ていないと痛感した。

 

自分は相手の声に耳を傾けているか?

ただ受動的に聞いていたり、否定的に捉えていたりしないか?

相手が話している最中、自分は相対する彼/彼女に対して誠実であるか?

 

そうした問いに、きちんと正面から「自分は誠実に向き合っている」と言いきれる自分ではなかったのだ。

ーーーーー

あなたはなぜ、面接の場で緊張してしまうのか?

どうして面接官の前に出ると、自由に振る舞えないのか?

答えは簡単だ。自分の一挙手一投足が「評価」の対象になっているからである。〈中略〉

取材に臨むライターは、面接官ではないし、裁判官でもなければ取調室の警官でもない。あえてたとえるなら、接見中の弁護人だ。つまり、「世界中を敵に回してでも、わたしだけはあなたの味方につく」を前提とする人間だ。そうでなければ、相手はこころを開いてくれない。面接試験の就活生と同じように、模範回答をくり返すだけである。

 

古賀さんは、このすぐ後に「評価とはいつも、『上から下』に向かってなされるものだ。」と言っている。

つまり、相手に向かって何か評価することばを使う限り、私は相手と同じ地平に立つことはできないのだ。

 

それはそうだ。相手をまるで無機な商品のように値踏みしているのは、ことばや、ことばの周辺に漂っている空気で相手に伝わってしまう。

 

ーーーーー

ふっと、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということばを思い出した。

尊敬している上司がいる。何がこの上司に好感を持たせているのかと、眺めてみたことがある。

驕らず、自分より遥かに若い後輩や部下にも敬意を持って相手に対応しているのがわかった。たまに冗談を言われるものの、相手が何に関心を持っているのか、しごとにおいて何を成し遂げたいのか考えたうえで話をしてくれる。

もちろん、自分にとって不得手だと感じるしごとを与えられることもある。しかし、それまでに上司のもとで取り組んだしごとと並べたとき、すべてに関連性が見えてくる。

【伝える】ということだ。例えば文章を書くこと。例えばパンフレットのレイアウトを考え実際につくりはじめること。例えばどんなイメージの表紙にするか決定すること。

すべて【伝える】ことに収斂していく。

 

ーーーーー

私は人と話すのが得意ではない。人前に立つのも苦手だ。

恐らく、ずっと「自分が伝わらない」という思いを抱いていたからだ。

中学生のころ、私の書いた読書感想文が、学校代表に選ばれたことがある。私が考えた感想文のタイトルは、私になんの報告もなしに、先生のつけたタイトルに変更されていた。

その感想文は学校代表から市町村の代表に選ばれ、県の選考対象にまでなった。段階がひとつ先に行く度、きちんと自分の文章を読んでくれる人がいる喜びと、自分が書いたものではない拒絶反応がない交ぜになっていった。

県で佳作にしかならなかったとき、ようやく解放されたような気がした。

 

ーーーーー

今思えば、私は自分の文章に対して「敬意」を払ってもらえなかったことに、ずっと傷ついていたのだろう。

 

そして、大人になった今、自分も同じことを後輩にしているかもしれないと気づいてしまった。「なんでこういう風になるのか」と、相手の状況を踏まえずに評価してしまっていた。

この本を読んだことで気づかされてしまった。

あのころの私を傷つけた先生に、私が成り代わってしまっている。

 

自分は相対している彼/彼女に常に誠実であるか。無自覚に評価を下していないか。

評価は人にするものではなくて、無人格のものにするものだ。

私がしなくてはいけないのは、まず対話だ。

 

相手を評価するのではなく、絶えず自分の在り方を見つめること。

そこからすべてが始まる。

泣いたことで、スタートラインに立つ準備がやっとできたのだと思う。

中学生のころの私に絆創膏を貼って、今日の私を階段から下ろして、目の前にいる相手を両目で捉えてことばを聴く。

 

きっとできる。

だってこんなに良い本を読んだのだから。